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マラソンの父 金栗四三

金栗四三さんは、マラソン選手として3度の世界記録を樹立し、日本人で初めて、第5回オリンピック・ストックホルム大会に出場し、第7回アントワープ大会・第8回パリ大会と3度のオリンピック出場を果たしました。また、日本初となる駅伝東海道五十三次駅伝や、今や正月の風物詩となり日ごろあまり陸上競技と縁のない人にも深い感動をあたえる箱根駅伝は四三さんの発案。さらに、下関~東京間・樺太~東京間・九州一周を踏破し、全国走破を達成しました。生涯に走った距離は25万キロ・地球6週と4分の1です。

四三さんは、明治24年(1891年)8月20日、玉名郡春富村(旧三加和町、現和水町)に(造り酒屋を営んでいた父信彦・母シエ)誕生しました。
吉地尋常小学校(現和水町春富小学校)を卒業したあと、10才で玉名北高等小学校(現南関町)に入学。往復12キロの道のりを毎日走って通学しました。のちにこれを回想して、「マラソンを走るようになったのは、いつの頃からですか?と、よく聞かれますが、東京高等師範の2年生の時からです。その基礎を作ったのは、高等小学校時代に一里半の通学をやったことによると思います。」と新聞に書いています。

明治38年(1905)玉名中学校(現玉名高校)進学し、クラスで1、2番の優秀な成績で特待生として授業料免除を受けていました。明治43年、東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した四三さんは、校長の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)に才能を見出されます。徐々に力をつけた四三さんは、日本のオリンピック初参加に向けた国内予選会で2時間32分45秒を記録。当時の世界記録を27分も縮める大記録でした。

明治45年、日本人初出場のオリンピック第5回ストックホルム大会は、猛暑に見舞われ、マラソン選手68人のうち34人がリタイアする過酷なレースとなりました。四三さんも日射病により、26.7キロ地点で棄権を余儀なくされます。
こののちも、第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のために中止、第7回アントワープ大会では優勝を期待されながらも惜しくも16位、第8回パリ大会ではすでに33才、ランナーとしての円熟期を過ぎ、32.3キロ地点で棄権。悲運のオリンピックランナーとして語り継がれています

大正3年(1914)、玉名郡小田村(現玉名市小田)池部家の養子となり、4月10日春野スヤさんと結婚。その後、東京女子師範学校などで地理の教師として教壇に立ちながら、さらに走りに磨きをかけます。オリンピック第8回パリ大会後は、後進の育成に力を尽くします。ストックホルムでの敗因を分析、考え出した真夏の房総海岸での「耐熱練習」。心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング。そして、孤独な長距離の練習をチームでやろうという箱根駅伝の企画。さらには、女子体育の奨励など、現在のマラソン界につながるあらゆる試みが四三さんの発案です。

昭和6年(1931)故郷玉名に帰り、学校対抗マラソン大会や駅伝競走をするなど、県内外においてマラソン普及に努めます。また、昭和11年日本での初オリンッピク誘致のため上京し、開催準備に奔走します。(昭和13年第12回オリンピック東京大会返上決定)
 昭和20年(1945)、再び帰郷、熊本県体育会(後の熊本県体育協会)をつくり初代会長に就任、第1回県民体育祭、第1回金栗賞朝日マラソン(後日本で初めて国際マラソン選手権に指定、昭和49年福岡国際マラソン選手権大会となる)、昭和24年(1949)西部マラソン20キロ大会(後の金栗杯玉名ハーフマラソン大会)等開催に尽力します。昭和35年(1959)には熊本で行われた第15回国体の最終聖火ランナーとして走りました。

しかし、晩年になっても四三さんの心残りは初めてのオリンピック、ストックホルム大会で途中棄権したことでした。昭和42年(1967)、75才のときにスウェーデンオリンピック委員会から一通の招待状を受け取ります。オリンピック記念行事への招待でした。この2度目のチャレンジで、四三さんはついにゴール。「日本の金栗、只今ゴールイン。タイム、54年と8月6日5時間32分20秒3。これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了する」場内をアナウンスが流れたとき、万感の想いが四三さんの胸をよぎったことでしょう。

四三さんが歩んでこられた道、その精神「体力・気力・努力」を残し、昭和58年(1983)11月13日、92才で永遠の眠りにつきました。

更新日: 2009年1月19日
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