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坂梨隆三さん

更新日:2009年1月19日

「プロ野球選手」が夢だった

〜夢はプロ野球選手〜東大教授とはかけ離れた少年時代〜

混雑した東京駅から地下鉄丸の内線に乗り換え、4つ目の駅「本郷3丁目駅」を降りると、静かな銀杏並木がある。そこを北へ10分程歩くと、あの東京大学がある。
東大の教授だから当然、少年時代も“ガリ勉君”?そうではない。坂梨さんもプロ野球選手に憧れた普通の少年だった。
「昔はね『野球少年』という雑誌があって、何年も愛読し、いろんなプロ野球選手の身長や体重、背番号などをよく暗記していました。その中でも一番好きだったのは巨人軍の川上哲治選手でした。今でも巨人軍のファンで、試合が負けた翌日の2時間目の授業までは、元気がないんです。むろん勝った時の喜びはたまりません」と野球少年に戻ったように目を輝かせ、野球の話をされる。
中学で野球部に入部。しかし、ある事件で1カ月もしない内に野球の道を外れることになる。一度家に帰って、野球部の練習に学校に行くと、誰も校庭におらず、今日の練習は中止と思い、バスケット部の方に行って遊んでいた。でも実は、お宮の森に入ったボールをみんなで探していたのだった。「私は球探しをしなかったというので、クビだと宣告されました。その時の悔しい思いは、今でも忘れられません。もしその事件がなかったら、後楽園球場でホームランを打っていたかもしれないのに」と苦笑いする。
普通の野球初年だった坂梨さん。教室内でも「やんちゃ坊主」だった。
小学生の時は毎日のように、担任の先生からゲンコツで殴られて、頭にコブがない日はなかったという。いつも何人か一緒に殴られ、先生も手が痛くなったらしく、ソロバンでやられることもしばしば。「中学校に上がってから、何か頭がスースーとして、淋しい感じがしたものでした。いつもあったコブがないものですから…」と頭をさする。何をして毎日殴られていたかは「謎」である。
中学に入っても、塾などというものはもちろんなく、クラブ活動の柔道を終えると、毎日、ヤギの草を刈りに自転車で出かけ、日暮れに帰って晩ご飯を食べる普通の生活だった。
東大に行こうと思ったのかは、とても分かりやすい。「東京には前から行ってみたかった。せっかく行くのなら、できれば一番難しいといわれる東大に行きたかっただけです。プロ野球では、巨人軍という感じでしょ」と簡単に話される。しかしなぜ文学部へ…。  
「数学や理科は苦手だったし、血を見て貧血を起こしたこともあって、理系や医者は向かないと思ったので文学部に進みました。文学部の中の英文科に行こうと思ったのですが、どう頑張っても、イギリス人には、かなわないだろうと国文科に行きました」。
 人生の選択を消去法で進んだ先に文学があり、東大教授の道へと進んでいった。
(平成13年11月1日号 広報たまな)

国語博士への道

〜研究は今だ継続中〜

昭和36年春、憧れの東京大学に入学した坂梨さん。それは、日本有数の国語博士へのスタートだった。
しかし当時の坂梨さんの気持ちは違った。「進学校ではないのんびりとした田舎の高校の先生になって、昼休みや放課後には草の上に寝っ転がって青い空に白い雲が流れるのを眺め、遠くに山並みがあって、牛や馬が傍らで草を食べている」というそんな生活をぼんやり思い描いていた。
期待と不安を胸に、東京での生活がスタート。月日とともに、友人も多くでき、遊びや勉学に励んだ。それでも年に1、2度は帰省し、家族や友人らと再会した。近くに住む祖母千寿さん(故人)も坂梨さんの帰省を楽しみに待っていた一人。手厚くもてなしてくれた。東京へ戻る時はいつもゆで卵を2、30個前掛けに包むようにして持ってきてくれた。店も何もない山の中で汽車が止まったら困るだろうということだった。「今ならコレステロールを心配するところですよね。祖母は、僕がなんでもたくさん食べると喜んでくれ、半ば祖母を喜ばすために食べているようなところもありましたよ」と照れながら、祖母の話をされる、祖母思いの坂梨さん。
4年生になり周りの同級生が次々と就職を決めていく…。
4年生で就職する決心もつかず、大学院の修士過程に進んだ。その頃非常勤で教えていた高校の校長先生にウチの専任にならないかと誘われるが、親にも相談し、さらに国語の研究をすることに。有り難い言葉を断って博士過程に進むことになった。それから教授の道へ進むことになる。
もちろん大学院卒業と同時に東大の教授になった訳ではない。研修期間として他の大学で勉強しなければならなかった。昭和47年から岡山大学の講師を約4年間、昭和52年から茨城大学で助教授を約4年間、その後助教授として母校東京大学で教壇に立つ。それから平成元年、教授となる。
著書では「江戸後期の可能動詞」「打消の助動詞「ない」の発達」「ラ行下二段活用の四段変化」「浄瑠璃本の半濁音符」「可能動詞の成立」など数々の論文を発表。さらに大辞林などの監修も手掛けられている。現在の研究課題は「近世の音韻」「文字」「敬語」とのこと。坂梨さんの研究はまだまだ続く。しかし今の自分の仕事の社会的意義はと聞かれるといつも肩身の狭い思いをされているという。
「私の仕事は他の仕事と違って、自分が仕事をしなくても世の中の誰一人困るという訳でもないし、はなはだ申し訳ない気がするのです。みんな日本語が話せるのにどうして大学に国語が必要なのですかと言われることもあるのですから」と感慨深げ。しかし、世の中のさまざまな事象(坂梨さんの場合は日本語)について正しく行われていない場合、それをそうだと指摘すること、そしてできるならばそれに代わる本当のものを提示して見せることが重要だと話される。
国語博士への道に足を踏み入れたのは、中学時代の担任が勧めた、県内トップクラスの高校への進学。さらに少年時代に聞いた兄の一言だった。
(平成13年12月1日号広報たまな)

好きで選んだ道ならば

〜玉名の子どもたちへ〜

「『走らない、走ります、走る、走れば、走ろう』のように『ら・り・る・れ・ろ』と変わっている(活用している)だろう」と少年時代、兄の悠之介さんから聞く。普段何気なく使っている言葉に、きれいな法則のようなものがあることに、はっと気付かされ、以来言葉について非常に興味を持つようになった坂梨さん。現在国語の研究を進めていく上でも、お兄さんとの会話を何かにつけ思い出されるそうだ。消去法で文学の道を選んだ陰には、お兄さんの一言が大きく影響していた。
人には、人生の転機ともなる出会いがあるという。坂梨さんのその出会いは、中学時代にあった。
玉南中学校時代、坂梨さんの担任をされていた上野幸人さんとの出会い。坂梨さんの人生を大きく変えた。上野さんが玉南中教諭の頃、伊倉の下宿先に坂梨さんを含め数人の生徒が訪れ、遊びがてら勉強していた。現在のように進路を決める三者面談もなく迷っていた坂梨さんの進路を上野さんは母校熊本高校への進学を勧めた。
「高校受験の時、引率してくれた上野先生は、ベストコンディションで試験に臨ませようと前日から熊本に宿をとってくれました。しかし隣室が団体客でとてもうるさかったので、すぐ宿を変えてくれたんですよ。その時のやさしさは今でも忘れません。私の恩師です」と上野さんとの思い出を語る坂梨さん。上野さんは現在立願寺在住。平成4年に定年退職後、専修大学玉名高校で英語の非常勤講師をされていた。
「坂梨くんは、今言うガリ勉でもなく勉強も運動もゆとりを持ってやっていましたよ。とにかく素直な生徒でした。英語に対する姿勢が前向きだった坂梨くんには正直なところ、英文の道に進んでもらいたかったんですよ。国文学の道を選びましたが、英文科に行っても有数の学者になっていたと思います。私を恩師と言ってくれるのはとてもうれしいけど、私がいなくても坂梨くんは、立派な学者になっていましたよ。これからも体に気をつけて研究に精進してほしいです」と謙そんしながら当時を振り返られる。今も坂梨さんとの交流は深く続いている。
「自分の苦い経験からも自分にあったもの、自分の好きなものを選んだ方がいいように思います」と苦笑しながら自分の経験を話される。「高校で理科の選択の時、生物にしたかったのに、よくできる人のまねをして物理を選び、社会も地理が一番好きだったのに主体性のなさでこれも世界史にしてともに後でさんざん苦労しました。高校の頃、応用化学は花形で何人かの優秀な人たちがそちらへ進み、後に公害問題などもあってか、一時下火となりました。時代の状況・景気によって人気のある学部や仕事が大きく変わるのもよく見られるところですが、もしそれが好きで選んだ道ならば少々辛い時世になっても納得して生きていくことができるように思うのです」と坂梨さんは語られる。
子どもたちにエールを送ってくださった坂梨さん
「玉名の子どもたちも自分で選んだ道は一生懸命やる。結果を恐れずにやってみることも大切です。それを親は暖かく見守り、励ましてください。目標は高く持って、頑張ってください。それからたくさんの本を読むこと。日記や手紙を実際に書いてみると自然と国語力はアップします。私は玉名が大好きです。これからもずっと応援します」と玉名の子どもたちに激励の言葉をいただいた。
(平成14年1月1日号広報たまな)


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