熊本藩高瀬米蔵跡
熊本藩高瀬米蔵跡(くまもとはんたかせこめぐらあと)
【指定日】令和4年11月10日
熊本藩高瀬米蔵跡は、高瀬御蔵跡(たかせおくらあと)・高瀬船着場跡(たかせふなつきばあと)・晒船着場跡(さらしふなつきばあと)の3つの文化財で構成されます。これらは、菊池川を利用して集積した年貢米を検査・保管し、大坂堂島へ搬出するための施設として、江戸時代に熊本藩により整備されました。
江戸時代、各藩の年貢米は大坂堂島の米会所(市場)に集められ、そこで取引をして米をお金に換えて、藩の収入にしていました。熊本藩には、大坂へ送る年貢米を管理する蔵が高瀬・川尻・八代にありました。文化年間(1804年から1818年)に熊本から大坂堂島へ運んだ量は最大40万俵で、そのうち高瀬から20万俵、川尻15万俵、八代5万俵でした。高瀬御蔵で取り扱う年貢米が最も多いことから、その品質や量が熊本藩の収入に影響を及ぼしました。そのため、重さ・米の質(品種が違う米や成熟していない米が入っていないか)・俵のつくり・濡れたものはないかなど、厳しく検査しました。厳しい品質管理を行い、収穫量も多く安定していた肥後米は、大坂堂島の米会所(市場)で建物米(たてものまい・取引期間中の基準となる銘柄)に選ばれるなど、全国の米の中でもトップクラスの評価を受け、高値で取引されました。
高瀬御蔵跡・高瀬船着場跡・晒船着場跡は全国的にも稀少な遺跡であり、日本の近世の物流と水運施設の様相を知る上で重要であると評価され、「熊本藩高瀬米蔵跡」として国史跡に指定されました。
A3用紙に「両面・短辺を綴じる」で印刷し中折りにすると冊子になります。
高瀬御蔵跡(たかせおくらあと)
【所在地】玉名市永徳寺413-19,413-20
【所有者】玉名市
高瀬御蔵は、菊池川流域の村々から舟などを使って運ばれてきた年貢米の品質検査と保管を行う施設で、江戸時代に熊本藩により整備されました。今回の指定範囲は、高瀬御蔵が置かれた範囲の一部です。
安政2年(1855年)作成の「菊池川全図」には、瓦葺の建物と「高瀬御蔵」の表記があります。また、江戸時代に描かれた「高瀬御茶屋絵図」には、10棟の蔵が並び、広場には米俵を野積みし米の品質などを検査する場である「御米山床」(おこめやまとこ)の表記があります。建物は、隣接していた高瀬御茶屋跡(たかせおちゃやあと)とともに、明治10年(1877年)の西南戦争で焼失し現存しませんが、蔵の痕跡として礎石列の一部が現存します。
【地図】
駐車場は、菊池川河川敷駐車場をご利用ください。徒歩約10分。
高瀬船着場跡(たかせふなつきばあと)
【所在地】玉名市永徳寺414番地15地先
【所有者】国土交通省・玉名市(管理団体)
高瀬船着場跡周辺は、中世には高瀬津と呼ばれており、伊倉の丹倍津とともに有明海沿岸の河港として唐船も出入りしていました。海外渡航や、貿易などで早くから重視され、南北朝時代にはすでに港としての体裁が整っていました。その後室町時代倭冦の頃には、本格的な港として成長をとげました。
『事蹟通考編年考微巻六』の中に「正平23年(1368年)戊申2月、僧絶海寓肥後国高瀬津按二高瀬津ハ玉名郡高瀬河口ヲ云昔ハ高瀬津及伊倉丹倍津ニ唐船モ来着ス 高瀬伊倉一続 濱ニテ相隔コト半里ハカリナリ・・・」「高瀬ハ異邦ノ書ニモ載セリ 図書編ニ日、薩摩之北爲肥後云々 其奥爲開懐世利 爲達加什云々 往昔此地唐船入湊入唐航海輻セシト云ウ。」と高瀬に関する記事が掲載され、中世以降肥後北部の対外的に重要な港として栄えていました。
加藤清正の入国後、この地にあった寺院「永徳寺」を移転させ、その跡地に菊池川流域の米の集積地として米蔵を設置し、米蔵に隣接した船着場を整備したと伝わります。加藤氏の改易後、船着場は細川氏が受け継ぎ、堤防下の川岸に堅固な石畳と石垣を築き、間を切って米蔵へ通ずる石段(通称:揚場 あげば)と、米蔵より川へ通ずる石敷の坂道(通称:俵ころがし)と川へ突出する石畳を設けました。上流の菊池、山鹿方面と玉名の一部から平田舟によって運ばれた米俵は、上手の船着場より石段(揚場)を使って御蔵へ運び込まれ、御蔵で検査が終わった蔵出し俵は、石敷の坂(俵ころがし)を使って、再び平田舟に積み込まれました。河口にある晒船着場で中型船(上荷船)に載せ替えられ、さらに有明海沖に停泊中の大型船へと積み込まれ、大坂堂島の蔵屋敷へ納められました。
堤防を水流から守る石垣、水流を弱める設備である「ワク」2基、御蔵に米俵を運び入れる石段(揚場)1基、御蔵から運び出した米俵を舟へ移し替える石畳のスロープ(俵ころがし)2基が現存します。安政2年(1855年)作成の「菊池川全図」にも現在と同様の設備が描かれています。
【地図】
駐車場は、菊池川河川敷駐車場をご利用ください。徒歩約5分。
晒船着場跡(さらしふなつきばあと)
【所在地】玉名市滑石2257番地先
【所有者】国土交通省(管理団体:玉名市)
菊池川右岸の最下流部に位置する晒は、その地理的特徴から寛永16年(1634年)には川口番所が置かれ、のち晒番所として鉄砲や槍などが配備されました。文化5年(1808年)には、河床が浅くなり海辺の村々から高瀬御蔵まで川を遡ることが困難になっていたことから、晒に御米山床(おこめやまとこ。米俵を野積みし検査をする広場)が整備されました。江戸時代後期になると米の取扱い量が増え高瀬御蔵では手狭になったため、晒に高瀬御蔵の支所として機能するよう整備されます。晒は、天保5年(1835年)以降逐次整備され、古くからの番所としての役割に加え、平田舟から中型船の上荷船へ年貢米などの荷物を積み替える中継地点、また年貢米の検査場として重要な役割を果たすようになりました。
安政2年(1855年)作成の「菊池川全図」には、堤防沿いに上流から津口改小屋、ワク1基、俵ころがし2基、ワク2基が描かれ、また堤防内には俵ころがしに隣接して「晒御米山床」(さらしおこめやまとこ)、下流のワク付近に「御番所」・「遠見」の施設が描かれています。このうち、俵ころがし2基と下流のワク2基が現存します。
【地図】
駐車場は、晒船着場に隣接する滑石河川緑地をご利用ください。徒歩約1分。
熊本藩高瀬米蔵跡は、菊池川流域日本遺産の構成文化財です。
菊池川流域日本遺産ホームページ:菊池川流域日本遺産(外部リンク)
認定ガイド(有料):菊池川流域日本遺産ガイド(外部リンク)