玉名の戦争を伝える 「大浜飛行場」
玉名の戦争を伝える「大浜飛行場」
飛行場は昭和18年9月、現在の大浜町、北牟田、横島町大園の水田地帯を埋め立てて建設が始まりました。
水田地帯が飛行場に
西暦 | できごと |
---|---|
1941 | 真珠湾攻撃/米英に宣戦布告(12月) |
1942 | 飛行場建設候補地の一つとなる |
1943 | 大浜飛行場建設決定 |
9月20日までの立ち退き命令 | |
1944 | 大浜飛行場一部完成(3月) |
少年飛行生120人入隊(4月初) | |
開隊記念式典(5月14日) | |
特別幹部候補生120人入隊(8月) | |
1945 | 教育隊廃止、錬成飛行隊に改編(4月) |
米軍B29による空襲(5月10日) | |
米軍艦載機による空襲(5月13日) | |
錬成隊、米子に一転(5月) | |
戦闘集団の配当飛行場となる(5月) | |
練習特攻機の中継基地となる(7月) | |
中等練習機が民家に墜落(7月29日) | |
敗戦・終戦(8月15日) | |
1946 | 飛行場跡地に玉名開拓団入植開始 |
飛行兵育成のための飛行場
昭和19年5月14日、開隊記念式典を挙行。式典中には、搭乗員2名が死亡する不幸な墜落事故が起きています。玉名教育隊には操縦指導員のほか本部の将校や事務員、整備班、医療や炊事、被服など多様な職種の人々がいて、地元玉名の人々も直接関わりました。
当初、滑走路工事の遅れから離着陸距離が短くてすむ複葉の練習機を使用し、より実践的な機体での訓練へと移っていきました。4カ月にわたる訓練を終えた少年飛行兵は7月に卒業、8月には入れ替わりで陸軍特別幹部候補生操縦第1期生が入隊し新たな訓練が始まりました。
飛行場の終焉、そしてー
法光寺(天水町野部田)に残された日の丸の寄せ書き。昭和20年5月の空襲後、大浜飛行場に移駐してきた第90・91振武隊(特攻隊)などの搭乗員は法光寺に寄宿、そこで終戦の日を迎えました。
戦禍の記憶
戦時に生まれて父を知らない
中嶋征子さん(73歳,中尾)大浜町(瀬戸町)生まれ
田邉達夫さん(88歳,大浜町)大浜町の歴史と文化を伝承する会
大西一則さん(87歳,大浜町)大浜町の歴史と文化を伝承する会
平和と命の尊さを次の世代へ
玉名市戦没者合同慰霊祭
- お問い合わせ 総合福祉課(電話番号:0968-75-1121)
記録を紡ぐ
くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク
戦争の記憶を語り継ぎ、平和の大切さを学ぶために
平成17年5月に「玉名荒尾の戦争遺跡をつたえるネットワーク」として活動を始め、平成26年8月に組織拡大して「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」として新たに活動を開始しました。熊本県内に所在する「戦争遺跡」に焦点をあて、その記録保存や検証、地域の文化遺産としての価値付け、後世に「戦争の記憶を語り継ぎ、平和の大切さを学ぶこと」を目的に活動しています。また、戦争遺跡保存全国ネットワークや、空襲・戦災を記録する会全国連絡会議との連携で、活動の幅を全国にも拡げています。
最近は、熊本県内の戦争遺跡の保存活動、平和活動などを行っている団体との情報交換会「戦争遺産フォーラムくまもと」をスタートさせ、その中核的な立場を担っています。さらにこれまでの活動の集大成として、熊本に戦争と平和のミュージアム「ピースくまもと」の設立を目指す活動を進めています。
戦後70年以上が経過し、戦争体験者の証言を聞く機会は急速に失われようとしています。今に生きる私たちは、それを正確に記録し、 残された戦争遺跡にその証言を重ね『戦争遺産』として保存に努め、未来に伝えていきたいと思っています。
「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」のホームページでは、活動記録やイベント案内のほか、刊行物などが詳しく紹介されています。
高谷和生さん(63歳,立願寺)くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク代表
大浜町を歩き、学び、伝える
2018年6月23日に、県立大学の学生チームが大浜町内を歩いて町の成り立ちや暮らしの変化を調査しました。かつて大浜飛行場があった場所(旭町公民館)では、当時を知る田邉さん、大西さんからその頃の体験や飛行場の様子などを直接聞くことができました。
学び、伝えよう 平和の尊さ
戦時下の暮らしを伝える玉名市民の声・写真
- 『昭和20年の玉名展―終戦から50年』(サイト内リンク)平成7年発行
- 『戦後70年―戦時下の記録』(サイト内リンク)平成27年発行
- 「大浜飛行場」リーフレットは文化課窓口(電話番号:0968-75-1136)で配布しています。
引用元:「玉名の戦争を伝える-大浜飛行場」『広報たまな』平成30年8月号抜粋(PDF 約908KB)
※本ページは上記記事を元に加筆・修正して作成しました。解説役の人物の年齢・肩書きは平成30年8月1日現在のものです。
終戦直前米軍撮影の大浜飛行場
くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワークが確認
米国立公文書館には、太平洋戦争中の日本に関する記録が多く保管されています。空襲・戦災を記録する会全国連絡会議の工藤洋三事務局長は、熊本県内にあった5飛行場の写真を新たに確認し、くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワークの高谷和生代表らと共に公表しました。その中には大浜飛行場の写真10枚(昭和20年7月27日撮影)が含まれています。大浜飛行場の写真は、これまでに昭和20年3月10日撮影の航空写真などが確認されており、これに続く貴重な成果です。
大浜飛行場は、昭和20年5月10日にB29爆撃機、13日に空母艦載機の攻撃で大きな被害を受け、民間人の死傷者も出ていました。今回確認された写真は、6月下旬に沖縄戦が終わり、本土決戦が予想される中で撮影されたものと考えられます。鮮明な画像で、飛行場北側の城ヶ崎、南側の横島山(外平山)を崩して土砂を運んでいるルートや、水田を埋めて造成されている範囲、爆弾跡とみられる丸い穴らしきものがはっきりわかります。飛行場以外の部分でも、現在は圃場整備などで失われた地割がわかる貴重な写真です。
末永崇さん(横島町)くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク
「小さい頃、北牟田に住む親戚の家に行くことを「飛行場に行く」と言っていました。この写真で飛行場の位置と広さがよく分かります」
元特攻隊員と天水との交流
天水町野部田・法光寺
振武隊員と法光寺の人たち
昭和20年7月末、中継基地となっていた大浜飛行場に移駐してきた第90・91振武隊(特攻隊)の隊員24人は法光寺に寄宿。出撃直前、そこで終戦の日を迎えました。
各地に復員した隊員たちは戦後40年近くが過ぎた昭和59年から法光寺に集まり、「法光寺会」を定期的に開催して交流が続きました。駐留当時は毎晩地元婦人会や近所の人たちが慰問に訪れていて、小天の福嶋住子さんは辞世の歌などの寄せ書きを戦後も大切に保管し、平成4年、47年ぶりに隊員と再会できたそうです。平成2年には、記念碑が本堂前に建立されました。
引用元:「終戦直前米軍撮影の大浜飛行場」『平成30年9月号』抜粋(PDF 約1MB)
※本ページは上記記事を元に加筆・修正して作成しました。解説役の人物の年齢・肩書きは平成30年9月1日現在のものです。
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