企画展 「昭和20年の玉名展 -終戦から50年-」
太平洋戦争は、あまりにも痛ましい多くの犠牲を払って終わりました。しかし、終戦から半世紀も経過すると戦争の悲惨な実態が消え去り忘れられていきつつあります。これは、玉名にみえる戦争の禍いを見つめ直し、平和の尊さをかみしめる記録です。(平成7年開催の企画展のため、合併前の旧玉名市のデータです。)
この戦争では、玉名市域の旧町村からも多くの若者が戦地に送られ、1,700人ほどの戦死者を出しました。昭和19年からは戦死者が急増して戦局が苦しくなっていったことがグラフからわかります。また、終戦後も100人を越す人々が亡くなっています。
戦没地も南方のニューギニアから北はシベリアまで、東は太平洋から西は中国の奥地まで、広範囲にわたっていることがわかります。玉名地域出身の陸軍兵士の多くは第6師団に属し、米軍の主力と戦うこととなり、多くの犠牲を出しました。
戦場では、航空機による戦闘が主力となったため、戦局が激しくなった昭和18年に、陸軍は大浜から豊水にかけての平野に飛行場をつくり、16〜7才の少年を集め飛行兵としての教育を行いました。当時アメリカ軍は日本本土を空襲する前に攻撃目標地点の航空写真を撮っています。大浜飛行場も上空から撮影されていました。この飛行場づくりには、当時の中等学校の生徒たちが「動員」され、汗水を流したものです。昭和19年の前半、少年飛行兵はこの大浜飛行場でわずか4か月の教育を受けた後、戦地に送られました。その後、中学校3年生以上の志願兵を集めた特別幹部候補兵がここで教育を受けています。写真はその訓練の様子で、右端に練習機ユングマン(通称「赤トンボ」)が写っています。彼らもここで4か月の教育を受けた後、その多くは鳥取県米子に移動していきました。
昭和も20年になると日本本土はアメリカ軍による空襲に連日さらされるようになりました。玉名も大浜町に飛行場があったのでB29と艦載機による空襲を受け大きな被害を受けました。大浜町は5月10日、B29による爆弾投下(爆弾20発)および、5月13日艦載機による爆撃(爆弾120発)と機銃掃射による空襲と二度被害を受け死者18名を数えました。これは当時の警察の記録および大浜小学校校庭に落ちた爆弾の破片です。終戦当時機関銃のやっきょうや爆弾の破片が落ちていて、中にはこれで遊んで大ケガをした子どもも出ました。
昭和20年8月15日、太平洋戦争は昭和天皇の終戦の詔勅によって終結します。時の軍部は「本土決戦」を叫んでいましたが、空襲による国土の焼土化、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦等まさに「我が民族の滅亡を招来する」危機に直面していました。これは、天皇の詔勅を報じた当時の新聞であり、ここから戦後の厳しい再生の道が始まりました。その道は「堪え難き堪え忍び難きを忍ぶ」いばらの道でしたが、平和と民主主義を掲げた日本が新しく出発した日ともなりました。
展示期間
平成7年7月14日(金曜日)〜平成7年9月24日(日曜日)
図録
平成7年7月14日発行 A4版白黒23頁 販売価格300円
購入方法については刊行物のご案内をご覧ください。
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