企画展 「明治初期・玉名の新しい風 高瀬藩展」
玉名市岩崎の玉名女子高等学校・玉名町小学校一帯は、元武家屋敷の面影を残す閑静な住宅地となっています。明治時代初期、この地に高瀬藩が設けられ、家臣団の屋敷が建設されました。
高瀬藩の前身は、寛文6年(1666年)、肥後藩3代藩主細川綱利の弟利重が3万5千石を内分されて、江戸に創設した支藩(新田藩)です。新田藩は知行地を持たず、本藩の蔵米分与により藩を経営し、参勤交代はなく江戸に常駐していました(定府)。
幕末・維新期における西日本の新田藩 慶応4年(1868年)=明治元年閏4月10日現在 熊本新田藩(外様)肥後高瀬3万5千石(細川利永)
明治維新の動乱のさ中である慶応4年3月4日、肥後新田藩は10代藩主利永を始め、藩をあげて江戸を離れ本藩のある肥後高瀬に下り、利永と家族は高瀬御茶屋に、家臣たちは高瀬町の商家や寺院に分宿しました。この時点では藩邸の建設地は決まっていなかったが、協議の末に高瀬の岩崎原台地に決定、10町歩の広大な面積に藩邸と家臣団の居宅が建設されることとなりました。藩邸の建設は明治2年5月に始まりましたが、家臣団の屋敷は、まだ藩邸の完成を見ぬ翌明治3年5月26日に竣工し下賜されました。この絵図は、家臣団の屋敷割当てのために明治2年に作成されたものです。
高瀬藩主利永の兄利正(直衛)の宿所に定められた延久寺にあてた元高瀬町奉行元田八右衛門永孚の書状。「諸事不敬がないように・・・」と指示しています。
藩邸建設半ばの明治3年9月4日、明治4年の廃藩置県を前にして、高瀬藩は本藩に統合され、藩主利永は東京居住、藩士は熊本藩への貫属換えとなりました。高瀬藩は、わずか3年たらずで終焉を迎えましたが、美術教育を通して女子の社会的地位の向上に尽くした横井玉子や玉名教育の充実に努めた三友雄など、旧藩士やその子孫からは、わが国の近代化に貢献した人々を数多く輩出することとなりました。
展示期間
平成10年7月7日(火曜日)から平成10年8月16日(日曜日)
図録
平成10年7月7日発行 A4版白黒48頁 販売価格500円
購入方法については刊行物のご案内をご確認ください。
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