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海外交易の時代

更新日:2009年3月14日

玉名の荘園

展示風景1枚目の画像律令制度の下では農民の負担は大きく、奈良時代になると土地を捨てて他へ移る人がでたり、日照りや水害などによる土地の荒廃や、人口の増加により公地が不足してきます。そこで朝廷は、三世一身の法(723年)により新しく開墾した土地(墾田)は、一定の期限付で所有することを許し、次いで墾田永年私財法(743年)で永久に所有することを認めます。これを機に、中央の貴族・寺院・地方の豪族たちは、生活に苦しむ農民や浮浪人を使い、盛んに開墾を進め、所有地を広げていきます。このような中央の有力者によって開発された所有地を「荘園」といいます。


荘園は8世紀の終わりから始まりますが増加して来るのは10世紀以降です。荘園の中には、不輸の権(租税を納めなくていい)、不入の権(国司の立入を拒むことができる)などの権利を持つものが出てきます。玉名の荘園には筥崎宮(本家は石清水八幡宮寺)領の大野別符(大野荘)、安楽寺領玉名荘、仁和寺領玉名荘、伊倉別符などの荘園があったことが分かっています。展示品の紺紙金泥般若心経は、太宰府天満宮の分社である梅林天満宮(玉名市梅林)の御神宝です。伝承では菅原道真の御真筆といわれていますが、仏画は平安末と思われます。仏説阿弥陀経は、同じく梅林天満宮に残る経典です。

海外に知られた高瀬

展示風景2枚目の画像律令時代、玉名郡司として権勢を誇った日置氏は、平安時代後期になると没落し、替わって入った新たな勢力のもとで、主に中国を相手とした海外交易が始まります。全国的にも同様に特に鎌倉時代には数多くの港が造られ、盛んに海外交易が行われています。この時代、現玉名市には伊倉(丹倍津)と高瀬(高瀬津)の二つの貿易港がありました。丹倍津は九州で勢力を誇った宇佐八幡宮の宇佐氏と地頭伊倉氏、高瀬津は県内最大の豪族菊池氏と地頭大野氏のもとで、開発されたものと思われます。当時の全国的な輸入品としては、鹿皮、鮫皮、生糸、綿布、蘇木、中国銭、白磁、青磁、経本などがあります。展示品の青磁・白磁片は、すべて当時の高瀬津およびその上下流にあたる菊池川内から出土したものです。また、輸出品は、扇、やかん、刀、銅、硫黄などです。玉名の特産の刀である同田貫も輸出品の中に含まれていたと思われます。貿易の相手国としては、当初は南宋(中国)、室町時代には明(中国)、朝鮮、朱印船貿易では東南アジアなど幅広い交易が行われたものと思われます。厦門船(あもいせん)は、朱印船貿易に使われた中国の船です。「国崩しの大砲」も、天正4年(1576)大友宗麟がポルトガル人から輸入し(インド製)、高瀬津から自領の臼杵城に運ばれたものです。


応仁の乱(1467年)により幕府の権威が衰えると、守護は自分の力だけで一国を支配する守護大名になります。また、守護の家臣が主君にとって変わり戦国大名になります。戦国期の肥後は肥前を本拠とする竜造寺氏、豊後を本拠とした大友氏、薩摩・大隅・日向を本拠とした島津氏の激しい争いに巻き込まれます。このため肥後の守護であった菊池氏は滅び(後大友氏の一族が菊池氏を名乗る)、阿蘇の大宮司であった阿蘇氏も衰え、地頭から力をつけた相良氏も勢力を伸ばすことができませんでした。 

このような中でも丹倍津も高瀬津もこれらの戦国大名の庇護を受けながら存続します。キリシタン大名である大友氏の支配下にあった時代は、高瀬にはルイス・フロイスなど多くの宣教師が立ち寄りました。宣教師は布教活動と共に貿易にも深く関与していましたので、玉名における2大貿易港であった高瀬・伊倉は彼らにとっては重要な地域であり、宣教師たちが伊倉に立ち寄ったことも当然考えられます。江戸時代、改宗した切支丹の子孫を5代に亘って追跡調査する「類族改帳」の中に、伊倉の住人が多数登場することから、大友氏の支配下当時、伊倉でも多くのキリシタンがいたことが分かります。また、伊倉には現在でも1基ではありますがキリシタンの墓が残っています。

厦門船模型の画像

国崩しの大砲の画像


津(港)を支えた寺社

展示風景3枚目の画像高瀬津・丹倍津による海外交易が始まると、中国商人や渡来僧、国内の僧侶の往来が始まり、商業や文化(特に仏教文化)が栄えます。高瀬では、寿福寺を始め高瀬五山といわれる寺院が建立されます。


寿福寺

天長元年(824)加善大徳が郡司大野氏の氏寺として開山。天台宗比叡山延暦寺末寺で繁根木八幡宮神宮寺(じんぐうじ)でした。戦国期に荒廃しましたが後復興、豪潮律師の寺でもあります。明治に入り廃仏毀釈により廃寺となります。

宝成就寺

真言宗山城国大覚寺末寺で延喜4年(904)京都醍醐寺の聖宝僧正により開山、西の高野と称されるほど繁栄しましたが、北条氏滅亡の祈願を行ったため幕府の圧迫を受けて退転しました。再興と炎上を繰り返し、廃仏毀釈により廃寺となりました。

永徳寺

延文2年、臨済宗南禅寺末寺として石屏禅師により開山、菊池武光が建立したといわれています。現玉名市永徳寺の菊池川河畔にありましたが、加藤清正の御蔵建設のため解体されました。展示品の中国産と思われる塑像仏頭は、永徳寺跡から出土したものです。その後、移築される予定でしたがそのままになり、細川忠利により高瀬町に復興しました。明治初年廃仏毀釈により廃寺になっています。

願行寺

時宗相模藤沢の清浄光寺末寺また薩摩浄光明寺の末寺で、貞和元年(1346)遊行上人5世他阿上人により開山、創建以来菊池家、大友家の代々祈祷所となりました。天正15年、秀吉の島津氏征討の際には本陣が置かれ、秀吉拝領と言われる太鼓が現存します。また、本堂裏には、天正12年島原で有馬・島津の連合軍に敗れ討ち取られた龍造寺隆信の首塚が残っています。

清源寺

臨済宗南禅寺末寺で正平2年(1347)菊地武尚(たけひさ)建立、固山一鞏(こざんいっきょう)開山と言われ、廃仏毀釈により廃寺となっています。展示品の如来坐像は、高麗仏で元清源寺にあったものであると言われています。13世紀後半以降に制作されたものと思われます。その他関係資料に「清源寺家訓」があります。

中国舟山(せんざん)列島には、観音浄土である補陀落山があるといわれていますが、日本からそこを目指して小さな舟で旅立つ(実際には死んで仏になりにいく。)僧侶達がいました。これを補陀落渡海といいますが、玉名市にも実際にこのことを記した(海上安全と大願成就を祈願して建立した)碑があります。伊倉本堂山の補陀落渡海碑には、天正4年(1576)、下野国(群馬県)の夢賢という僧がはるばる伊倉に来て、補陀落山に渡海したことが記されていますし、拓本を展示している繁根木の稲荷社にある補陀落渡海碑には、永禄11年、同じく下野国の弘円上人、駿河の善心行人、遠江の道円行人が補陀落山に渡海したことが記されています。

秀吉と清正の津

展示風景4枚目の画像肥後が他国の戦国大名の支配下にあった時、肥後の従来からの土豪や旧菊池・阿蘇の家臣であった国人(国衆)たちは、それぞれの戦国大名との関係をうまく保ちながら自ら城を持ち、領地を拡大していきますが、天正15年(1587)3月、豊臣秀吉の九州征伐が始まると、肥後を制圧していた島津氏を離れ秀吉に与します。

同年5月の秀吉の九州統一後、秀吉は肥後の国人たちに旧来通り領地を保証しますが、実際は今までの所領よりもかなり削減され、加えて肥後の国主として赴任してきた佐々成政は、検地を行ったり、秀吉の命令以上に土地を削減したり、国人たちを自分の下級家臣的地位に位置付けようとしたため、国衆は結束して一揆をおこします。結果、52人の国衆の半数以上が一揆に参加し滅ぼされ、またこの時中立を保った国衆も結果的に滅ぼされてしまいます。残った国衆たちも、知行地を散在させられたり、浪人・百姓になったりして、加藤・小西の家臣団に編入させられます。


国衆の中で玉名市域を領地に持っていた国衆には小代氏と高瀬氏、山上三名字の一人である内田氏がいます。

佐々に代わって天正16年5月、肥後北半の領主として加藤清正、肥後南半の領主として小西行長が派遣されますが、「豊臣秀吉朱印状」によれば、高瀬津周辺は、秀吉の直轄地(蔵入地)として清正が代官をつとめることになります。また関ケ原の戦いにより小西行長が死亡すると、加藤清正は、小西領の一部を引継ぎ54万石の大大名となり、朱印船貿易を行い、伊倉には唐人町や鍛冶屋町ができます。

海外文化交流の伊倉

阿吽の形相をとる雄雌一対の麒麟をかたどった香炉は、伊倉八幡宮(玉名市伊倉)に現存していたもので、八幡宮祠記には明人浜沂郭公によって奉納されたと記されています。浜沂郭公は、中国明朝につかえ、四位官を授かったあと東洋との貿易を行った豪商であり、元和元年(1615)伊倉に来て同五年死去。現在、その子珍栄が建てた墓が伊倉鍛冶屋に残り、「しいかんさんの墓」として親しまれています。この墓の調査の際、青磁の碗一つ(覚真寺蔵)が発見され、浜沂郭公の愛用したものではないかといわれています。また、伊倉田端には、同じく日明貿易に活躍した明人振倉謝公の墓が残っています。

鎖国後の海外貿易資料としては、「信牌」があります。鎖国後、海外との貿易は、長崎の出島に限られていましたので、限られた有力商人にだけ、江戸幕府発行の貿易許可証明書である信牌は高瀬商人であった深江屋に残っていたもので、文化2年4月長崎において、南京船主李亦聖(りえきせい)と9千5百両に限って貿易を許す内容の物です。


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