日本のおじいちゃん 笠 智衆さん
日本のおじいちゃん 笠智衆
笠智衆さんと言えば「日本のおじいちゃん・お父さん」というイメージがあり、誰もが自分の祖父や父親に重ねてしまいます。日本のおじいちゃんとして、今も多くの国民に愛されている俳優笠智衆さん。日本映画史をたどる上でも欠かすことの出来ない人物です。 智衆さんは、明治37年(1904年)5月13日、熊本県玉名郡玉水村立花(現玉名市天水町立花)の来照寺住職の息子として生まれました。
玉水小、玉名中(現玉名高校)を卒業後、お寺を継がされる(兄が台湾に行っていた為)のがいやで、京都の竜谷大学に入学します。しかし、進学する意志もなく毎日ブラブラしているのが父に分かり学資を止められてしまいます。その後、無試験で入学でき卒業すれば教師・布教師の免許が取れる等の理由から東京の東洋大印度哲学倫理学科へ転学します。しかし、大学には2、3日しか通わず玉名中学校時代の同級生の所に転がり込んで共同生活が始まります。
そして、その友達が心配して「松竹キネマの俳優研究所」の募集広告を渡したのがきっかけで、大正14年2月に松竹キネマ蒲田撮影所の俳優研究所研究生一期生に合格。ここに俳優笠智衆が誕生することになりました。しかしその年の7月、父の死去のために帰郷し、住職を継ぐことにまります。どうしても夢を捨てきれない智衆さんは、翌年に住職を兄に譲り、研究所に復帰しました。
それから約10年もの下積み生活後、小津安二郎監督に認められ、小津作品には全作品に出演。監督と共に数々の名作を生みました。
昭和23、26、45年には毎日映画コンクール助演男優賞、26年ブルーリボン賞助演男優賞、42年紫綬褒章、50年勲四等旭日小綬章をそれぞれ受賞されました。
智衆さんの出演された映画は、アクション映画やSF映画のような派手さはありません。人生や生活の中で経験するようなノスタルジックな良さや、心に残る思い出があり、素朴で飾らない日本人・貧しい中にも人情豊かだった日本を感じさせてくれます。
晩年は「日本のおじいちゃん」として全国的に親しまれ、その姿は忘れられつつある良き日本人をスクリーンで、そして自らの人生そのもので演じ続けられました。平成5年3月16日、惜しまれながら俳優 笠智衆は生涯俳優のまま88歳で永遠の眠りにつきました。
笠智衆さんの足跡
年代 | ことがら |
---|---|
明治37年(1904) | 5月13日玉名郡玉水村(現玉名市天水町)立花に浄土真宗本願寺派来照寺の次男として生まれる |
明治44年(1911) | 玉水村立玉水尋常小学校入学 |
大正6年(1917) | 熊本県立玉名中学校(現玉名高校)入学 |
大正13年(1924) | 東洋大学印度哲学倫理学科へ入学 |
大正14年(1925) | 2月松竹キネマ蒲田撮影所・俳優研究所第一期生に合格、入所する。7月父死去のため帰郷、住職を継ぐ |
大正15年(1926) | 1月兄に住職を譲り、撮影所に復帰、大部屋暮らし始める |
昭和3年(1928) | 映画初出演「若人の夢」 |
昭和4年(1929) | 椎野花観と結婚 |
昭和5年(1930) | 「落第はしたけれど」で初めて台本をもらう |
昭和11年(1936) | 小津安二郎監督に見いだされ「一人息子」に教師役で出演、注目を集める。以来ほとんどの小津作品に出演する |
昭和12年(1937) | 「仰げば尊し」(斎藤寅二監督)で初めて主役を演じる |
昭和17年(1942) | 「父ありき」(小津安二郎監督)で主演 |
昭和23年(1948) | 「手をつなぐ子等」(稲垣浩監督)「生きている画像」(千葉泰樹監督)などの出演 |
昭和24年(1949) | 48年度毎日日本映画コンクール男優演技賞受賞。「晩春」(小津安二郎監督)主演 |
昭和26年(1951) | 「カルメン故郷に帰る」「海と花火」(木下恵介監督)、「我が家は楽し」(中村登監督)「麦秋」(小津安二郎監督)、「命美わし」(大庭秀雄監督)などに出演。 |
昭和27年(1952) | 51年度ブルーリボン賞助演男優賞、毎日日本映画コンクール男優演技賞受賞 |
昭和28年(1953) | 「東京物語」(小津安二郎監督) |
昭和29年(1954) | フリーとなる。「二十四の瞳」(木下恵介監督)出演 |
昭和40年(1965) | NHKドラマ「たまゆら」主演でテレビ初出演 |
昭和42年(1967) | 紫綬褒章授章 |
昭和44年(1969) | 「男はつらいよ」(山田洋次監督)始まる。御前様の役で以後生存中の同シリーズ全作品に出演 |
昭和45年(1970) | 「家族」(山田洋次監督)出演 |
昭和46年(1971) | 70年度毎日日本映画コンクール男優助演賞受賞 |
昭和50年(1975) | 勲四等旭日小綬賞授章 |
昭和56年(1981) | 第6回熊本映画祭で特別功労賞受賞 |
昭和60年(1985) | 「東京画」(ヴィム・ヴェンダース〉に出演。日本映画の代表的俳優として外国からも注目を浴びる |
昭和62年(1987) | 自伝「俳優になろうか」を出版 |
昭和63年(1988) | 東京都文化賞受賞。9月、天水町名誉町民となる |
平成2年(1990) | 川喜多賞受賞 |
平成2年(1990) | 第43回熊本県近代文化功労者受賞 |
平成5年(1993)
| 3月16日、享年88歳で永眠。 |
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