超々ジュラルミン開発者 五十嵐勇氏
(写真提供:株式会社UACJ)
五十嵐 勇(いがらし いさむ)氏は、明治25年(1892)1月18日、玉名郡月瀬村(現 玉名市溝上)東光明寺の住職の長男として生まれました。明治42年(1909)、熊本県立玉名中学校(現 熊本県立玉名高等学校)を卒業します。1期下には、日本マラソンの父金栗四三氏がいます。
中学校卒業後、広島高等師範学校(現 広島大学)に進学。大正2年(1913)に同校を卒業した後、住職を継がずに、熊本県立八代中学校(現 熊本県立八代高等学校)と台湾の中学校で教鞭を執りました。大自然の理法を見る目を養いたいと、大正8年(1919)京都帝国大学(現 京都大学)に入学し、理学部物理学科で学びます。
大学卒業後は、住友合資会社(後の住友金属工業株式会社、現 株式会社UACJ)に入社。入社後すぐに東北帝国大学金属材料研究所に内地留学し、金属の父と言われる本多光太郎所長に師事します。入社後はアルミニウム合金とマグネシウム合金の研究に取り組み、昭和10年(1935)海軍航空廠から同社への開発要請を受け、超々ジュラルミンの開発に着手。軽くて強いアルミニウム合金には、数カ月経つとなぜか割れるという弱点がありましたが、割れを短時間で起こす実験方法を生み出し、その後にさまざまな物質を加えた合金を作って割れるかどうかを試すという逆転の発想で、昭和11年(1936)超々ジュラルミンの開発に成功しました。昭和14年(1939)「航空機用材としての軽合金の研究」で大阪帝国大学(現 大阪大学)より工学博士が授与されます。
この超々ジュラルミンは、零式艦上戦闘機(通称 ゼロ戦)の主翼の骨組み部分に使われ、軽量化した零式艦上戦闘機は速力、上昇力、航続力に非常に優れたものとなりました。終戦後、五十嵐氏は住友金属工業株式会社を定年退職し、東北大学・秋田大学・岩手大学で教授を務め、住友金属工業株式会社研究顧問に就任するなど後進の育成に尽力。昭和45年(1970)78歳で同社の研究顧問を退いた後は、熊本県に戻り、妻の郷里である熊本市島崎町で余生を送りました。昭和43年(1968)勲三等旭日中綬章を受章。昭和49年(1974)第15回本多記念賞を受賞。昭和61年(1986)3月7日にご逝去されました。享年94歳。
改良された超々ジュラルミンは、航空機の機体以外にも自動二輪車、自動車のアルミホイールや金属バット、スマートフォンのボディなどさまざまなところで利用されており、現在の私たちの生活を鑑みたとき、その功績は多大なものであると評価されています。
研究者としての「ものの考え方」
一.後塵を拝さないために、たとえ狭くとも深く、深く掘り下げて各自の領域において世界の尖端を切っていく必要がある。
二.研究者は事実を直視せねばならない。思った結果と矛盾した事実が示されたときのみ進歩があり、発展がある。
三.全て物事は徹底すること。徹底すれば新事実を見出すことができる。真理は理屈ではない。実験の結果が真実である。
四.疑問が生じたとき、どうしてだ、どうしてこうなるのかなど繰返し、徹底的に突っ込んで調べなくては駄目だ。
簡便な評価法を考案して合金探索を徹底的に行うという五十嵐氏の研究手法は、氏が内地留学時代に師事した本多光太郎博士の研究手法と同じであり、留学時代に本多博士から直接「本多イズム」をたたき込まれたと思われます。さらに、東光明寺の住職の長男として育ち、幼い頃から教え込まれた「縁起の理法」等の仏教の教えや人生観を身に付けていたこと、一旦社会に出てから大学に入り直し「大自然の理法」を見る目を養ったこと、「肥後もっこす」という純粋で正義感が強く、一度決めたら頑固で妥協しないという熊本県人の気質を持ち合わせていたことなどが影響しあって、氏の「ものの考え方」が形成されたものと考えられます。
参考:『熊本県の近代文化に貢献した人々-功績と人と(令和六年度近代文化功労者)-』熊本県発行
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