高田雪太郎さん 明治期の治水(富山県)で活躍
明治期に、玉名から遠く離れた富山県の地で、富山の主要河川である常願寺川の治水に人生を捧げた人物がいます。
その人物は、築地生まれの土木技師の高田雪太郎です。
富山県への寄贈
今年の7月26日、高田雪太郎の孫である高田修(たかたおさむ)さん(78歳・築地)と熊本大学小林一郎教授が「高田史料」を富山県に寄贈されました。
富山平野の治水事業の実態は今までオランダ人の治水専門家、ヨハネス・デ・レイケ側の資料しかなく、日本側での資料はありませんでした。この「高田史料」で改めて解明できると評価されました。
高田史料とは
今回、寄贈された「高田史料」は、明治期に富山県技師として治水事業に取り組んだ雪太郎が玉名市の自宅に残していた遺品です。後に熊本大学小林一郎教授のもとで保管されることになり、今年、富山県の置県130年を期に寄贈されることになりました。「高田史料」には、書籍、写真、書簡、工部大学校時代の講義ノート、熊本洋学校の修了証書や退学届など3907点に及び、富山県の黎明期の治水を知るための貴重な手掛かりとなっています。
高田雪太郎の生涯
熊本から東京へ
1859(安政6)年、玉名郡築地村(現・築地)に生まれました。
幼少の頃から熊本城下の私塾で漢学を学び、1872(明治5)年、13歳になると熊本洋学校に入学し、英語による授業で西洋の学問を身につけました。
1875(明治8)年、16歳になると東大工学部の前身の一つである工部大学校に入学。
当時の最先端であった西欧の工業技術を直接外国人から学び、1881(明治14)年、工部大学校を卒業しました。
7年間の富山県勤務
1881(明治14)年、内務省に入り、石川・福岡などに勤務後、建設会社を経て1889(明治22)年内務省に復職。
その年、富山県勤務を命じられ1896(明治29)年に辞するまでの7年間を富山県で過ごしました。
赴任当時は、富山県内務部四等技師、その後、内務部第二課長として任命され、富山県内の土木事業の最高責任者として、すべての土木事業を総括、指導する立場となりました。
その頃の富山県では水害が頻発しており、1891(明治24)年の大洪水では、常願寺川左岸は21日間も浸水し600ヘクタールの田畑が流失。当時の森山茂富山県知事は、常願寺川改修の必要性を痛感し政府に要請。
政府は、デ・レイケを派遣することに決定。デ・レイケは、県内各河川の調査を行い、そのほとんどに雪太郎は随行し記録を残しています。
その結果、水害の原因は、水源部の崩壊した大量の土砂と荒廃であることを確認しました。
そして基本計画を作成しデ・レイケの指導の下、雪太郎が施工することとなりました。
また、デ・レイケが富山県にいない場合は、雪太郎が手紙で質問をしてデ・レイケが返答する形式で情報交換が頻繁に行われました。
常願寺川の河川改修工事
その後、常願寺川の改修工事が始まると、森山知事は、「これは改修にあらず、全く改正ともいうべき」と語り、莫大な予算をかけた事業となりました。1891(明治24)年に起工して、1893(明治26)年に竣工した常願寺川改修工事は、西欧の近代技術を取り入れた日本で完成した事業の一つであるといわれています。
晩年の雪太郎
雪太郎は1896(明治29)年に辞した後は内務省に戻ることなく民間に就職しますが、翌年に胃腸病で郷里の熊本に帰ってきます。
1901(明治34)年、熊本県勤務を命じられますが、病のため翌年には退職。1903(明治36)年、築地の自宅で43歳の短い生涯を終えました。
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