マラソンの父 金栗四三さん
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記事を追加しました(2021年1月23日)
- 金栗四三マラニック
- ようこそ玉名市へ!中村勘九郎さん再訪
- いだてん大河ドラマ館へのご来場ありがとうございました(新着記事)
- 第42回日本マラソンの父金栗四三のふるさと玉名 横島いちごマラソン大会プレイバック
- 詩人・画家の大野勝彦氏から「体力・気力・努力」書画寄贈
- 玉名名物「4×3レモネード」
- 玉名を走ろう〜RUN旅〜【玉名市PR動画】
マラソンの父 金栗四三(かなくり しそう(ページ内リンク))
玉名市名誉市民第1号である金栗四三さんは、マラソン選手として3度の世界記録を樹立し、日本人で初めて、第5回オリンピック・ストックホルム大会に出場。さらに、第7回アントワープ大会・第8回パリ大会と3度のオリンピック出場を果たしました。また、日本初となる駅伝「東海道五十三次駅伝」や、今や正月の風物詩となり日ごろあまり陸上競技と縁のない人にも深い感動をあたえる「箱根駅伝」は四三さんの発案です。マラソン普及のため、下関から東京間・樺太から東京間・九州一周を踏破し、全国走破を達成しました。生涯に走った距離は25万キロ・地球6周と4分の1です。
92年の人生の中で、青春時代と後半生の約50年を玉名市で暮らしました。
22歳の時に小田村(現玉名市上小田)の池部家の養子になることになり、春野スヤさんと結婚。
オリンピックでの雪辱を誓う金栗さんは、養母幾江や妻の深い理解もあって結婚後も妻を玉名に残し東京でマラソン競技や後進育成に邁進しました。妻や子どもたちは上小田の家で暮らしながら金栗さんを支える時期が続きますが、お互いの近況を手紙や絵はがきで小まめにやりとりしています。
家族と暮らした家、お墓、ゆかりの場所が市内各地にあります。
今も語り継がれる”金栗”の名前(ページ内リンク)
マラソン金栗の誕生
四三さんは、明治24年(1891)8月20日、玉名郡春富村(旧三加和町、現和水町)で造り酒屋を営んでいた父信彦・母シエの間に8人兄弟の7人目として誕生しました。
吉地尋常小学校(現和水町春富小学校)を卒業したあと、10才で玉名北高等小学校(現南関町)に入学。往復12キロの道のりを毎日走って通学しました。のちにこれを回想して、「マラソンを走るようになったのは、いつの頃からですか?と、よく聞かれますが、東京高等師範の2年生の時からです。その基礎を作ったのは、高等小学校時代に一里半の通学をやったことによると思います」と語っています。
明治38年(1905)玉名中学校(現玉名高校)に進学し、学校敷地内の寄宿舎(玉名郡弥富村、現玉名市中)で生活。クラスで1、2番の優秀な成績で特待生として授業料免除を受けていました。
玉名中学校4年の四三と校舎
マラソン競技との出会い
明治43年(1910)、東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した四三さんは、校長の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)に才能を見出されます。徐々に力をつけた四三さんは、日本のオリンピック初参加に向けた国内予選会で2時間32分45秒を記録。当時の世界記録を27分も縮める大記録でした。
オリンピック国内予選会優勝の記念写真(ゼッケン51番)
ストックホルムオリンピック出場
明治45年(1912)、日本人初出場のオリンピック第5回ストックホルム大会は、猛暑に見舞われ、マラソン選手68人のうち34人がリタイアする過酷なレースとなりました。四三さんも日射病により、26.7キロ地点で棄権を余儀なくされます。
ストックホルム大会開会式入場行進で「NIPPON」プラカードをもつ四三さん
「消えたオリンピック走者」
スタートで出遅れた四三さんは一度は最後尾になりますが、その後疲れてきた他選手を追い抜き、17、18位まで順位を上げていきました。しかし、折り返し地点を過ぎてまもなく、急激な疲労に襲われました。懸命にちからをふりしぼって走り続けようとしますが、体がいうことをききません。頭の中がボーッとしてかすみはじめ、とうとう26.7キロメートル地点でコースをはずれ、林の中に消えてしまいました。
地元の人(ペトレ家)に助けられた後、競技場へは戻らずまっすぐ宿舎に帰りました。そのため正式な棄権の届出が本部に届いていなかったようです。
このことで金栗四三という選手は、スウェーデンでは「消えた日本人」、「消えたオリンピック走者」として語られることになりました。
敗戦後の決意
(日記の内容)
「大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。人笑わば笑え。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重圧を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」
金栗四三、ストックホルム・マラソン翌日(7月15日)の日記より
ストックホルムオリンピックにおいて、四三さんは思うような結果を残すことはできませんでした。敗因は、シベリア鉄道での長期の移動と宿舎の劣悪な環境の中でコンディションの維持が出来なかったこと、夏の暑さにまいったこと、練習と経験不足、なれない硬い舗装路面に足袋が破れヒザを痛める結果になったことなどが考えられました。
帰国後ユニホーム姿で出場記念写真
オリンピック出場後
東京高等師範を卒業、研究科へ進んだ大正3年(1914)、22歳の時に親戚だった玉名郡小田村(現玉名市上小田)池部家の養子となる話がまとまり、4月10日に石貫村(現玉名市)の医者の娘春野スヤさんと結婚。その後、東京府女子師範学校などで地理の教師として教壇に立ちながら、さらに走りに磨きをかけます。
池部家家族写真(妻スヤ、四三、母イクエ、妻の弟)
大正3年(1914年)第2回陸上競技会選手権で世界記録を樹立しゴールする瞬間
こののちも、挽回を期した大正5年(1916)第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のために中止、大正9年(1920)第7回アントワープ大会では優勝を期待されながらも惜しくも16位、大正13年(1924)第8回パリ大会ではすでに33才、ランナーとしての円熟期を過ぎ、32.3キロ地点で棄権。悲運のオリンピックランナーとして語り継がれています。
パリ大会で激走する金栗選手
日本のランニングシューズの原点、「金栗足袋」を開発
当時は運動靴というものはまだ無く、地下足袋のような履き物で走ったそうです。オリンピック出場後、東京の足袋屋ハリマヤ黒坂親子に頼んで足袋の改良に取り組み、ハゼ(留め金具)をやめ、甲にヒモが付いた型へと変わっていきました。
ストックホルムで見た外国人が履くゴムを底に付けたシューズがヒントとなり、ゴム底の「金栗足袋」を開発。多くの日本のマラソン選手が「金栗足袋」を履いて走りました。
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日本のスポーツ教育のさきがけ
3度のオリンピック出場で見た、世界のスポーツ競技の水準は想像以上でした。世界のスポーツの状況を目の当たりにした四三さんは、日本でもスポーツを広めなければならないと決意します。
とくに、女子も参加してスポーツが盛んなヨーロッパでの光景に感銘を受け、将来母となる女学生の心身を鍛えることは国の重大事であると指摘しました。1921年(大正10年)東京府女子師範学校に奉職すると、初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催、大正12年には関東女子体育連盟を結成するなど、女子体育の振興に力をいれていきました。
地理の教師のかたわら、学校をまわって学生らと一緒に走り、スポーツの重要性を語りました。また、競技会や運動会に顔を出してはマラソン普及に努めました。暑さに強くなるように真夏の房総海岸での耐熱練習を繰り返し、心肺機能を高めるため富士山麓での高地トレーニングを続けました。
日本体育・マラソン普及のため、下関―東京間(大正8年)、樺太―東京間(大正11年)、九州一周(昭和6年)を踏破、全国走破を成し遂げました。また一人ではなくチームで長距離を走るため、駅伝を発案。日本初の駅伝東海道五十三次駅伝(大正6年)や箱根駅伝(大正9年)を企画。箱根駅伝は、正月恒例の大会となっています。
現在のマラソン界につながるあらゆる試みが四三さんの発案です。
マラソン普及と体育振興に尽力
昭和6年(1931)39歳で故郷玉名(現玉名市上小田)に帰り、学校対抗マラソン大会や駅伝競走をするなど、県内外においてマラソン普及に努めます。また、昭和11年日本での初オリンピック準備のため上京し、開催準備に奔走します(昭和13年第12回オリンピック東京大会返上決定)。
40代前半、小田尋常高等小学校で
小田の子どもたちと
昭和20年(1945)、再び帰郷、熊本県体育会(後の熊本県体育協会)をつくり初代会長に就任、第1回県民体育祭、第1回金栗賞朝日マラソン(後日本で初めて国際マラソン選手権に指定、昭和49年福岡国際マラソン選手権大会となる)、昭和24年(1949)西部マラソン20キロ大会(後の金栗杯玉名ハーフマラソン大会)等開催に尽力します。昭和35年(1959)には熊本で行われた第15回国体の最終聖火ランナーとして走りました。
昭和30年(1955)には玉名市の市制施行祝賀式典において文化功労者として表彰され、さらに昭和37年(1961)には玉名市の名誉市民第1号に選ばれました。
玉名市初の名誉市民に選ばれたことを伝える「玉名市政だより」(昭和37年11月19日発行)
橋本二郎初代玉名市長と金栗さん
自宅近くの小田小学校の児童を始め、運動会や市民体育祭では子どもたちや市民と一緒に走り、アドバイスするなど、走ることの楽しさ、すばらしさを玉名市民に伝え続けました。
東京オリンピックの年、昭和39年(1964)国立競技場で少年少女と走る金栗さん
昭和39年(1964)玉名高校陸上部員と走る金栗さん
昭和40年(1965)秋の園遊会に招待される(妻スヤさんと)
55年目のゴール
しかし、晩年になっても四三さんの心残りは初めてのオリンピック、ストックホルム大会で途中棄権したことでした。
ストックホルム大会から50年目の夏、昭和37年(1962)にスウェーデンの新聞記者が「消えた日本人」の謎を解明するため、玉名の自宅で金栗さんを取材。謎を解き明かした取材結果は、スウェーデンの新聞やテレビで大きく紹介されました。
ストックホルム・ティドニンゲン紙のヘッドバーグ記者による取材の様子を伝える「玉名市政だより」第86号(昭和37年7月25日発行)と、「1912年に行方不明になった日本人を発見した」と伝えるスウェーデンの新聞(7月31日発行)
昭和42年(1967)、75才のときにスウェーデンオリンピック委員会から一通の招待状を受け取ります。オリンピック記念行事(55周年記念祝賀行事」への招待でした。
スウェーデンオリンピック委員会による夕食会(上記写真について)
半世紀ぶりにストックホルムの五輪記念陸上競技場を訪れた四三さんは、大観衆の中で10メートルほど走り、用意されていたゴールテープを笑顔で切りました。その瞬間、「日本の金栗選手、ただ今ゴールイン。記録は通算54年と8月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了といたします」との粋な場内アナウンスが流されました。そのとき、万感の想いが四三さんの胸をよぎったことでしょう。
四三さんは、「長い道のりでした。その間に妻をめとり、子ども6人と孫10人ができました」と語りました。この記録は、世界で最も遅いマラソン記録として語りつがれています。
2012年7月には、ストックホルムで「五輪100年記念マラソン大会」と金栗四三の功績をたたえた顕彰銘板の除幕式が開催されました。この式典には、四三さんのひ孫にあたる蔵土義明さんと高嵜哲哉玉名市長の2人がスウェーデンから招待され、蔵土さんはマラソンに、高嵜市長は除幕式に参加しました。この夢のような話は、日本とスウェーデンの、多くの人たちの尽力によって実現しました。
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大きな功績を残した人生
金栗四三さんは、期待を背負って出場したオリンピックで結果を残せませんでしたが、日本初の大きな国際大会への参加から得た教訓を生かし、その後の人生においてマラソン界の発展と日本スポーツの基礎を築くことに奔走しました。「体力・気力・努力」の精神のもと、誰もがスポーツを楽しむ日本をつくることに生涯をかけたのです。晩年も各地のマラソン大会へ出かけては選手たちの激励やスターターをつとめ、人柄が伝わる温和な笑顔でレースを見守っていました。
昭和30年(1955)紫綬褒章受章
昭和44年(1969)県立玉名高校に銅像建立
金栗杯玉名30キロマラソンで声援を送る
昭和45年(1970)金栗杯開会式での選手激励(玉名市役所)
昭和48年(1973)玉名市第1回老人スポーツ大会で「50メートル人さがし」競技に出場(玉名町小学校)
昭和49年(1974)玉名市「市制20周年記念運動会」で市民と走る(玉名中学校)
昭和55年(1980)駅伝大会スターター(玉名市)
昭和57年(1982)走ろう会訪問マラソン(玉名市上小田の自宅)
昭和57年(1982)第33回金栗杯玉名30キロロードレース大会スターター(玉名市)
四三さんが歩んでこられた道、その精神「体力・気力・努力」を残し、昭和58年(1983)11月13日、92才で永遠の眠りにつきました。お墓と記念碑は玉名市上小田の住家そばにあります。
昭和59年(1984)第35回金栗杯玉名30キロロードレース大会で遺影を抱くスヤさん(玉名市)
2019年大河ドラマの主人公に
玉名市名誉市民第1号でもある金栗さんは、2019年大河ドラマ「いだてん」の主人公の1人です。
(玉名市名誉市民のページ)
以下、関連記事へのリンクです。
- 金栗さんのふるさと玉名で大河ドラマ撮影
- ようこそ玉名市へ!中村勘九郎さん再訪
- 橋本愛さんと峯田和伸さんが玉名市へ!大河ドラマ「いだてん」トークツアー
- 中村勘九郎さんと宮崎美子さん登壇「金栗万博」を開催しました
- 中村獅童さんが大河ドラマ館を訪問
- 大河ドラマ「いだてん」トークツアー開催しました
- 金栗さんの子役・久野倫太郎くんが玉名市を訪問
フォトギャラリー
今も語り継がれる"金栗"の名前
金栗さんは、13歳で玉名郡弥富村(現玉名市中)にあった旧制玉名中学(現玉名高校)に入学。18歳で上京するまで、学校敷地内にあった寄宿舎で生活しました。東京高等師範学校在学中の22歳の時に、玉名郡小田村(現玉名市上小田)の池部家の養子となることになり、結婚。その後も関東で競技生活や教員生活を続けますが、39歳で小田村へ帰郷しました。その後45歳の時に東京オリンピック準備のため再び上京するも、53歳で帰郷、以後約40年間を現在も残る玉名市上小田の自宅で過ごしました。
金栗さんが暮らした上小田の風景
92年の人生のうち青春時代と後半生の約50年を過ごした玉名市では、多くの市民が名誉市民”金栗さん”の人柄や功績に触れ、さまざまな形で“金栗”の名前が今も語り継がれています。
金栗杯玉名ハーフマラソン大会
昭和24年に開催以来60余年の歴史と伝統を誇る大会。若手選手の登竜門として数々の名ランナーを輩出してきました。
金栗駅伝大会
金栗四三の功績をたたえ、玉名市陸上競技協会が毎年開催。40回以上の歴史を持つ大会で、小学生から一般までが各部門で争います。
金栗記念広場
桃田運動公園にある多目的運動広場で、マラソン競技の第一人者であり名誉市民でもあることからその名が付きました。
金栗四三の銅像・壁画
出身校である熊本県立玉名高校の校庭には、銅像があります。昭和44年に建立されて以来生徒達をずっと見守っています。
九州新幹線新玉名駅前には、気迫あふれる若き日の銅像があります。玉名高校の同窓会により2018年11月11日に建立されました。
鍋松原海水浴場の入り口には金栗さんをはじめとする玉名市の偉人が描かれています。岱明中学校の美術部員が2018年10月13日に完成させました。
金栗四三展
遺族から寄贈された金栗足袋やユニホームなど、金栗さんゆかりの品々約700点を収蔵している市立歴史博物館こころピアでは、毎年金栗杯玉名ハーフマラソンの開催時期にあわせ2月から3月に遺品やパネルを展示する金栗四三展を開いてきました。
玉名市名誉市民「金栗四三」
昭和37年(1961)には玉名市の名誉市民第1号に選ばれました。玉名市役所本庁舎4階の議場前には歴代の名誉市民とともに金栗さんの写真と業績が紹介されています。
玉名市役所ロビー
金栗さんのエピソードを紹介するPR装飾が玉名市役所本庁舎ロビーに登場しました。
記念碑
お墓の前には、金栗さんの書による「体力・気力・努力」と刻まれた記念碑があります。以前は記念碑に通じる道の道幅が狭く不便でしたが、地元小田校区のまちづくり委員会の努力によって道幅を拡げ近くまで車で行き駐車できるよう整備されました。
金栗四三翁住家・資料館(池部家)
家族と暮らした家(池部家)。玉名市上小田。一般公開中です。
玉名市以外でも、出生地の三加和町(現和水町)では没後の昭和59年(1984)に名誉町民に選ばれました。また同年には一周忌追悼の「金栗四三翁マラソン大会」が開催され、今に続いています。箱根駅伝の第80回記念大会からは、最優秀選手賞として「金栗四三杯」が町長から授与されています。
ほかにも、熊本陸上競技協会などの主催による「金栗記念選抜陸上中長距離熊本大会」が、毎年4月初旬に熊本市の熊本県民総合運動公園陸上競技場(えがお健康スタジアム:旧愛称K.K.ウィング)を会場として開催されています。なお、K.K.ウイングのK.K.とは、金栗四三および「九州」「熊本」の頭文字からとられたものです。
玉名市・和水町・南関町 大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」地域振興協議会
金栗さんをさらにPRし、地域活性化につなげるため、玉名市、生誕地の和水町、走って通学した小学校のある南関町とで広域連携の協議会を結成しました(平成29年10日6日)。今後、観光や経済、文化関係観の民間団体とも連携した地域一体となった取り組みで、情報発信や観光客誘致を進めていきます。
以下、外部リンクです。
以下、関連記事へのサイト内リンクです。
- 大河ドラマ「いだてん」3市町協議会が発足しました
- 日本マラソンの父、金栗四三のふるさと「玉名市・和水町・南関町」ロゴマーク人気投票(現在はリンクが切れています)
- 「日本マラソンの父」金栗四三のふるさとのPRロゴマークの使用について
協議会で作成した金栗四三ゆかりの地めぐりのリーフレットを玉名市役所ロビーなどで配布しています。
小田地区金栗四三PR推進部会
金栗さんが通算約44年暮らした住家やお墓、記念碑がある小田校区で、地区住民が一丸となって地域活性化に取り組むための住民組織が誕生しました。2019年に向けて見学者や観光客の受け入れ環境を整え、金栗さんの思い出の継承などに取り組みます。PR部会のメンバーは小田校区の各区長や団体の代表など40人。
また、2017年2月10日の初会合にあわせ、金栗さんの3人の娘さんからご寄付が届けられました。部会長の船津和利さんは金栗さんの娘さんからのお心遣いにも感謝し、「金栗先生の業績を小田校区から全国に広めていきたい」と話していました。
熊本県立玉名高校・附属中学校体育祭の人文字
金栗さんの出身校の高校全生徒による応援合戦の人文字。平成30年5月13日に開催された第71回の体育祭では、「先輩である金栗四三さんから諦めない精神を学んだ」と紅団・輝団・蒼団の全団において、大河ドラマへの期待が人文字のフレーズに込められました。
本ページ掲載画像の使用許諾等の手続きは、金栗四三PR推進室にお問い合わせください。
電話番号
0968-57-7548
どんな人物だったのか、偉人の内面を探る
マラソン選手として、偉大な経歴を持つ金栗四三氏。今回、金栗氏がどんな人物だったのか、直接本人と近所付き合いのあった人へ話を聞きました。
初めて知った” マラソン” という言葉
1911年(明治44年)、羽田運動場でオリンピック代表選手選考大会が開催されました。この選考大会の告知記事とその種目を見た金栗氏は、なんとその時初めて“マラソン”という言葉を知ったそうです。まだマラソンという言葉が浸透しておらず、40キロを超える距離を走ることが日本では想像されてもいなかった頃に、金栗氏は手探りで練習をし、選考会を見事優勝で飾ったのです。
先を見据えていたトレーニング指導
日本代表としてオリンピックに出場した金栗氏は、トレーニングに関する知識も豊富。小学校の子どもたちに、現在でいうサーキットトレーニング(複数の動きを組み合わせ、休憩を挟まずに繰り返す練習法)を教えていました。内容も、タイヤ飛びなど子どもたちにあわせたもの。運動に必要な感覚は12歳から13歳までにほぼ成人の水準に近くなるとされています。小学校の頃からさまざまな運動を通して感覚を成長させることの重要性を、当時から金栗氏は知っていたのかもしれません。
毎日かかさない朝夕の散歩
晩年、金栗氏は自宅から小学校までの約800メートルの距離を、雨の日も風の日も欠かさず、朝と夕方に往復していたそうです。「人間、足が大切」と話し、雨の日も傘を差しながら往復していたようです。
引用元:「金栗四三の軌跡」『広報たまな』平成24年7月1日号抜粋(PDF 約4MB)
金栗さんをもっと知りたい時には
以下、関連記事へのサイト内リンクです。
歴史博物館こころピア
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多くの遺品や資料を収蔵・展示している歴史博物館こころピアでは、功績を紹介したリーフレットを配布しているほか、遺品や写真を掲載した図録『マラソンの父・金栗四三 -25万キロの人生-』や楽しく遊びながら足跡を学べる「金栗四三すごろく」を販売中。
体験学習に参加するともらえる「金栗足袋缶バッジ」や、若き日の金栗さんの等身大パネルと一緒に記念撮影ができるコーナーも。金栗さんのポストカードも販売しています。
お問い合わせ 玉名市立歴史博物館こころピア 電話番号:0968-74-3989
金栗四三さんの足跡
金栗さんは、92年の人生の中で、青春時代と後半生の約50年を玉名市で暮らしました。
年 | 月日 | ことがら | 満年齢 | 居住地 |
---|---|---|---|---|
明治24年(1891) | 8月20日 | 玉名郡春富村(旧三加和町、現和水町)にて父信彦・母シエの間に生まれる。 | 0 | 春富村(現和水町) |
明治30年(1897) | 4月 | 春富村吉地尋常小学校入学 | 5 | ー |
明治34年(1901) | 4月 | 玉名北高等小学校(現南関町)入学 往復12キロ通学 | 9 | ー |
明治38年(1905) | 3月4日 | 父信彦病死(56歳)。 | 13 | ー |
4月 | 玉名中学校(現玉名高校)進学、寄宿舎(玉名郡弥富村、現玉名市中)で生活。特待生に選ばれる。 | ー | 弥富村(現玉名市) | |
明治43年(1910) | 4月 | 東京高等師範学校(現筑波大学)進学、校長嘉納治五郎。 | 18 | 東京 |
春・秋 | 春の長距離競走(12キロ)25番、秋の長距離競走(24キロ)3番 | ー | ー | |
明治44年(1911) | 4月 | 徒歩部に入部 | 19 | ー |
11月19日 | 国際オリンピック大会選手予選会で世界記録達成 2時間32分45秒達成(20歳) | 20 | ー | |
明治45年(1912) | 7月14日 | 第5回オリンピック・ストックホルム大会マラソンに日本人初の出場、暑さのため26キロ過ぎで棄権(20歳)。 | ー | ー |
大正2年(1913) | 7月 | 千葉館山北条海岸で暑中トレーニング | 21 | ー |
ー | 東京高等師範最高学年、徒走部室長となる。 | ー | ー | |
11月2日 | 第1回陸上競技選手権大会出場、世界記録2時間31分28秒達成(22歳) | 22 | ー | |
大正3年(1914) | 3月 | 東京高等師範卒業、研究科へ。 | ー | ー |
4月10日 | 玉名郡小田村(現玉名市上小田)池部家の養子となる話まとまり、石貫村の医師の娘春野スヤと結婚式をあげる(池部家)。 | ー | 家族は小田村(現玉名市) | |
ー | 妻を玉名に残し、全国の師範学校をめぐってマラソン普及活動 | ー | ー | |
11月23日 | 第2回陸上競技選手権大会出場、世界記録2時間19分20秒3達成(23歳) | 23 | ー | |
大正4年(1915) | 5月 | 第2回極東選手権協議大会(上海)に参加 | ー | ー |
11月21日 | 第3回陸上競技大会で優勝、三連覇 | 24 | ー | |
秋 | 大日本体育協会から功労賞 | ー | ー | |
大正5年(1916) | 1月 | 第6回オリンピックベルリン大会、第1次世界大戦のため中止。 | ー | ー |
大正6年(1917) | 4月27日から29日 | 日本初の駅伝奠都(てんと)記念東海道五十三次駅伝競走を企画、アンカーをつとめ優勝。 | 25 | ー |
4月29日 | 大日本体育協会から功労賞 | ー | ー | |
7月22日 | 第2回富士登山マラソン競走。高地トレーニング始める。 | ー | ー | |
10月10日 | 神奈川県師範学校赴任(担当科目地理) | 26 | 鎌倉 | |
大正7年(1918) | 4月10日 | 東京市私立独逸学協会中学校に移る | ー | 東京 |
大正8年(1919) | 7月22日から8月10日 | 秋葉祐之と下関-東京間1200キロを20日間で走破 | ー | ー |
11月23日 | 日光-東京間130キロを10時間で完走 | 28 | ー | |
ー | 「金栗足袋」商標登録、売り出す | ー | ー | |
大正9年(1920) | 2月14日 | 第1回東京箱根間往復駅伝競走を企画 | ー | ー |
3月10日 | 私立独逸学協会中学校退職 | ー | ー | |
8月22日 | 第7回オリンピック・アントワープ大会マラソン出場、2時間48分45秒で16位(29歳) | 29 | ー | |
ー | オリンピック後ドイツへ、女子体育の振興に目覚める | ー | ー | |
大正10年(1921) | 1月10日 | 東京府女子師範学校(現東京学芸大学)へ奉職 | ー | ー |
6月18日 | 全国マラソン連盟設立、初代会長となる。 | ー | ー | |
10月31日 | 日本初女子テニス大会開催 | 30 | ー | |
大正11年(1922) | 8月3日から8月26日 | 秋葉祐之と樺太-東京間を20日間で走破 | 31 | ー |
11月12日 | 第1回女子連合競技大会開催 | ー | ー | |
大正12年(1923) | ー | 関東女子体育連盟結成 | ー | ー |
大正13年(1924) | 7月13日 | 第8回オリンピック・パリ大会マラソン出場、32.3キロ付近で意識不明となり落伍、大会後陸上競技の第一線から引退(32歳)。 | 32 | ー |
11月19日 | 東京府女子師範学校教諭、東京府立第二高等女学校(現東京都立竹早高等学校)教諭を兼務する。 | 33 | ー | |
昭和2年(1927) | 8月 | 第8回極東選手権大会(上海)陸上総監督 | 36 | ー |
昭和4年(1929) | 9月2日 | 父親代わりだった兄実次死去 | 38 | ー |
昭和5年(1930) | 9月29日 | 辞職 | 39 | ー |
昭和6年(1931) | 7月 | 故郷玉名(現玉名市上小田)へ帰る。栗本義彦と九州一周走破。学校を巡り学校対抗のマラソン大会や駅伝競走をするなど県内外においてマラソン普及に奔走する。以後5年あまり暮らす。 | ー | 小田村(現玉名市) |
昭和11年(1936) | 12月 | 東京オリンピック決定、日本で初のオリンピック準備のため直後単身上京。 | 45 | 東京 |
昭和12年(1937) | 4月 | 東京市十文字高等女学校(現:十文字中学校・高等学校)奉職(昭和16年まで)。妻と6人の子どもも上京。 | ー | (家族も上京) |
昭和13年(1938) | 7月16日 | 第12回オリンピック東京大会返上決定 | 46 | ー |
昭和16年(1941) | 3月 | 私立学校青葉女学校へ移る | 49 | ー |
昭和19年(1944) | 夏 | 夏休みから家族郷里玉名へ帰る | ー | ー |
昭和20年(1945) | 3月 | 青葉女学校を辞め、再び玉名へ(53歳)。以後生涯を上小田で暮らす。 | 53 | 小田村(現玉名市) |
昭和21年(1946) | 2月15日 | 熊本県陸上競技協会発足 | 54 | ー |
4月1日 | 熊本県体育協会発足、初代会長となる。 | ー | ー | |
5月 | 三太郎走破駅伝開催、9月県下中等学校陸上競技大会復活。 | ー | ー | |
11月3日 | 第1回熊本県民体育祭開催に尽力 | 55 | ー | |
昭和22年(1947) | 1月4日 | 東京箱根間往復駅伝競走復活 | ー | ー |
4月1日 | 熊本陸上競技協会の第2代会長に就任 | ー | ー | |
12月7日 | 第1回金栗賞朝日マラソン熊本市で開催(のち日本で初めて国際マラソン選手権に指定、昭和49年福岡国際マラソン選手権大会となる) | 56 | ー | |
昭和23年(1948) | 11月1日 | 熊本県初代教育委員長(公選制)となる(57歳) | 57 | ー |
昭和24年(1949) | 2月27日 | 西部マラソン20キロ大会佐世保において開催 | ー | ー |
昭和27年(1952) | 11月 | 高松宮杯西日本各県対抗九州一周駅伝の企画に係わる | 61 | ー |
ー | 熊日社会賞受賞 | ー | ー | |
昭和28年(1953) | 4月 | 第5回ボストンマラソン日本監督となる(61歳)。山田敬蔵優勝(世界記録2時間18分51秒)。 | ー | ー |
ー | 西日本文化賞受賞 | ー | ー | |
昭和30年(1955) | 10月23日 | 秩父宮賞受賞 | 64 | 玉名市上小田 |
11月3日 | 紫綬褒章受章 | ー | ー | |
昭和32年(1957) | 3月24日 | 紫綬褒章授章を記念して第1回熊日招待マラソン(30キロ)開催(25回大会から金栗記念熊日30キロロードレースと改称)(65歳) | 65 | ー |
11月3日 | 熊本県近代文化功労者として表彰 | 66 | ー | |
昭和33年(1958) | 2月20日 | 朝日文化賞受賞 | ー | ー |
昭和34年(1959) | 5月 | 第18回オリンピック開催地が東京に決定 | ||
6月7日 | 第11回西部マラソン30キロ大会玉名市で開催、これより玉名市に定着(「金栗杯玉名30キロマラソン大会」「金栗杯玉名ロードレース大会」「金栗杯玉名ハーフマラソン大会」と改称)(67歳) | 67 | ー | |
昭和35年(1960) | 10月24日 | 第15回国民体育祭熊本で開催、最終炬火ランナーとして走る(69歳) | 69 | ー |
昭和37年(1962) | 11月1日 | 玉名市名誉市民(第1号)となる(71歳) | 71 | ー |
昭和39年(1964) | 10月10日 | 第18回東京オリンピック開催 | 73 | ー |
11月3日 | 勲四等旭日小綬章受章 | ー | ー | |
昭和40年(1965) | 11月10日 | 秋の園遊会に招待される | 74 | ー |
昭和42年(1967) | 3月20日から4月1日 | スウェーデンオリンピック委員会の招きによりスウェーデン訪問、54年8カ月6日5時間32分20秒3、半世紀目のゴールをはたす(75歳) | 75 | ー |
昭和44年(1969) | 5月31日 | 熊本県立玉名高等学校に金栗四三銅像除幕 | 77 | ー |
昭和45年(1970) | 4月19日 | 西部マラソン30キロ玉名大会を金栗杯玉名30キロマラソン大会と改称 | 78 | ー |
昭和47年(1972) | 1月9日 | 熊本走ろう会発足、初代名誉会長となる(80歳) | 80 | ー |
昭和48年(1973) | 3月11日 | 第1回全国壮年天草パールラインマラソン大会 | 81 | ー |
4月 | 玉名市陸上競技協会創立、顧問となる。 | ー | ー | |
昭和58年(1983) | 11月13日 | 永眠(92歳)。お墓は玉名市山部田。 | 92 | ー |
11月20日 | 金栗翁追悼玉名市民マラソン開催 | ー | ー | |
11月29日 | 玉名市・県体育協会・熊本陸上競技協会「玉名市名誉市民故金栗四三先生合同告別式」(玉名市民会館) | ー | ー | |
ー | 従五位銀杯下賜 | ー | ー | |
昭和59年(1984) | 11月 | 三加和町(現和水町)名誉町民 | ー | ー |
11月4日 | 第1回金栗四三翁マラソン大会開催(三加和町) | ー | ー | |
平成12年(2000) | 秋 | 金栗四三関係資料が玉名市立歴史博物館こころピアに寄贈される | ー | ー |
平成14年(2002) | 3月 | 企画展「マラソンの父・金栗四三〜25万キロの人生〜」を開催 | ー | ー |
平成24年(2012) | 6月 | 企画展「ストックホルムオリンピック出場から100年 金栗四三展」を開催 | ー | ー |
平成30年(2018) | 11月 | 新玉名駅前に玉名高校同窓会が銅像を建立 | ー | ー |
平成31年(2019) | 1月12日 | 40年以上暮らした金栗四三住家(池部家)の一般公開開始 | ー | ー |
「金栗四三」さんの名前の読み方
金栗さんの名字「金栗」は「かなくり」「かなぐり」、名前の「四三」は「しぞう」「しそう」と読み方が複数あり、書籍や新聞記事などで異なる表記がされています。これまで玉名市では「かなくり しぞう」と読むことで統一してきました。
これは、金栗さん本人が昭和37年(1962)に書いた英文の手紙に「Shizo Kanakuri」と署名していること、昭和39年オリンピック東京大会組織委員会発行の身分証明書での「KANAKURI SHIZO」、昭和42年(1967)外務省発行のパスポートでの「SHIZO IKEBE」というアルファベット表記によるものです。
しかし、金栗さん本人が「SHISO」と署名しているものや、「しぞうでなく、しそうと読むのです」と記者に答えた新聞記事(1976年6月1日付け)もあります。
そこで、玉名市、和水町、南関町や玉名市・和水町・南関町大河ドラマ「いだてん」地域振興協議会で再確認を行い、さらに金栗さんの親族とも話し合った結果、今後玉名市では「しそう」との読みに統一することを発表しました(平成30年1月29日玉名市月例記者会見)。今後、金栗四三さんの名前の読み方は「かなくり しそう」と表記します。
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