室山まゆみ(姉:真弓、妹:真理子)さん
マンガの始まり
〜幼少からの思い〜
「あさりちゃん」、「どろろんぱっ!」、「すうぱあかぐや姫」など、多数の作品を手がけられている室山まゆみさん。漫画家としての名前は「室山まゆみ」ですが、デビュー当初から姉妹二人でマンガを書き続けています。姉が室山真弓さん、妹が真里子さん。
二人の作品の中で、最も長く連載されている作品は「あさりちゃん」で、第1巻は1980年4月に発行され、1982年にはアニメ化もされた。それから20数年、その当時あさりちゃんを読んでいた子どもたちも、今や子を持つ親になっている年齢。その子どもたちが読者となっている「あさりちゃん」は、本当に息の長い、そして時代を超えて愛される作品だ。読者に共感できるようなこの作品には、お二人の幼少からの体験が礎となっているのかもしれない。
二人が小学校低学年生になるかならない頃、夏休みの時期には繁根木川の河川敷あたりにサーカスが来ていた。二人の年代でも、移動テントのサーカスは当時としては珍しかった。
「サーカスに一度だけ行ったことがあります。大きなテントが一つと小さなテントが一つ。その一つは見せ物小屋で、看板だけはおどろおどろしかった。でも中に入ったら、おばちゃんが小さな蛇を口に入れていただけだったんですよ。」と笑いながら真弓さんが話
された。
小学校のときは、玉名駅近くの観音堂の境内に紙芝居が来ていた。今振り返ると、こんな体験は豊かな思い出となっている。東京でこの話をすれば、大体自分たちより10歳位上の人しか共感してくれない。「あ、そんなことがあった。何であなたたちの年齢で知っているの」とまで年上の人に言われたこともあった。
古い木の枠の紙芝居で、売っていたものも水あめに、のしイカだった。紙芝居のおじさんは、「買わなきゃ。買わない子は去れ」と怒鳴っていた。
昔住んでいた父の実家は大覚寺近くで、その正面が揚げ物屋だった。昼前、一番最初のメンチカツやゴボウ天が揚がると、「奥さ-ん、揚がったよ-」と声をかけてくれた。すると、母と3人で駆けて天ぷらを買いに行った。
このような幼少時代の思い出は、「あさりちゃん」の中でほっとする何かの根底だったのではないのだろうか。
この後、すぐに熊本市内へと引っ越してしまうが、毎年夏休みには、2週間程いとこの家へ行き一緒に遊んでいた。
いとこと4人で紙芝居に行ったり大洋館(市役所の後ろ)へ映画を見に行ったりしていた。その当時は、遊ぶ道具が少なかったので、女の子4人で漫画を描いていた。
普通に描いていて、「上手だね」とほめられるとすぐ有頂天になっていた。
(平成16年9月1日号広報たまな)
遊びから夢へ
〜追い求めるもの〜
小学生になって熊本市へ引っ越しをした室山姉妹。夏休みや春休みになると、いつもボストンバッグを抱え玉名のいとこ姉妹の所へ泊まりに行っていた。この当時の思い出を、現在玉東町にお住まいの竹崎洋子さんは次のように語られた。
「夏休みに二人が遊びに来ると、外で遊ぶことよりも、家の中でカット絵を描いたり、押入れでかくれんぼをしている事が多かったです。たまに遠くへ冒険や探索に出かけていました。夜には怖い話を自分たちで作って楽しんでいました。映画も見に行きましたが、幽霊物の怖いものばかりでした。今でもあさりちゃんのなかで怖い話が載っていると、子どもの頃していた怖い話を思い出します。二人は絵を描くのがとても早かったです。そして、私たちが人形の絵を描く時は、顔と洋服そして、直立不動の絵を書いたりしてましたが、二人は色々な手のポーズをとった人形の絵を描いていて私たちのものとは違っていました。」
マンガの書き方の練習は、もうこの時から始まっていたのかもしれません。
姉の真弓さんが幼稚園の時、妹の真里子さんは、母親が熊本市内の病院通いをしていたのでくっついて行っていた。待合室で母親を待っている間、おとなしくさせるために紙と鉛筆を渡されていた。一人で絵を描いていると、周りにいる大人たちが「上手だね」と言ってくれ、それが嬉しかった。「何か描いてもらおうかな」とお願いされ、さらにそれをもらってくれる大人がいた。絵を描くことがさらに楽しくなった。
二人が小学校の中・高学年になった時には、さすがに親も勉強しなさいと言い出した。その時の苦しまぎれの言い訳で「私は将来これで食っていくからこれでいいんだ。私は漫画家になるから、今勉強も大事かもしれないけれど、将来のためにがんばっているんだよ。」と言っていた。
子どもの浅知恵だったのかもしれないが、だからと言って、やれっていわれるとやらないし、駄目と言われるとやりたくなるし、とりあえず勉強しているより漫画を描いているほうが楽しかった。
こうしてマンガを書き続けていると雑誌への投稿が目標となってきた。最初に投稿したのが、姉が中学2年、妹が小学6年の時。もちろん、箸にも棒にもかからないものを描いていたが、自分たちはうまいつもりだった。当時は、何も知らなかったので、紙のサイズも違いひどいものを描いて送っていた。この時は、二人とも別々に描いていた。
小学生の時は絵を描くことが好きだったが、この頃はお話を作ることが好きになっていた。絵だけ描くのが好きなら漫画家にはなっていなかっただろう。
だから、中学になった時にはかなり本気で漫画家になりたかった。雑誌で高校生プロデビューの記事があおってあったので、高校生でプロになれると本気で思っていた。当時の雑誌に、「15歳高校1年生の女の子がデビューしたと載っていた。あなた世代の作家がデビュー」とあり、絶対自分もなってやろうと思っていた。
姉真弓さんは高校を卒業してすぐに就職をした。これは、高校生でプロになれなかったことと、簡単に東京へ行くお金がなかったからだ。しかし、プロになりたいから東京へ出て行くために、2年間お金をためることにした。妹真里子さんが高校3年生の時、姉真弓さんは運良く東京へ転勤となる。お金を貯めることなく上京できたので、ラッキーな転勤だった。(平成16年10月1日号広報たまな)
夢から現実へ
〜そして漫画家へ〜
姉の真弓さんは1月に上京、妹の真里子さんは後を追うように3月の高校卒業を待って上京。それから本格的に漫画家としての人生がスタート。この後、真里子さんが19歳の時に姉妹デビューしたが、真弓さんは5年間会社に勤めながらマンガ制作に取り組んでいた。
夜遅くまでマンガを描いて朝会社に出なければいけなかった真弓さんは、多忙な生活を過ごしていた。生活の中でのマンガのウェイトがだんだん高くなっていき、会社にはほとんど遅刻して行っていた。幸運にも所属が海外事業部だったため、朝から商社を回ったりすることが多かったので、昼からでも回れるものを、朝から回ってきますと言って、遅刻を隠していた。この間真里子さんは、真弓さんが会社に勤めている間マンガを描いていたので、真弓さんに対して非常に申し分けない気持ちでいっぱいだった。
上京して2年目から結構忙しくなり大変だった。しかし、今振り返るとあのころはとても楽しかった。マンガを描くことが自分の仕事になったことと、それ以外に会社で働いた給料がたまっていく満足感があったからだ。真弓さんの会社での給料はそんなに高くはなかったが、そのお金で生活して、マンガで得た収入を全部貯金していた。貯金が増えていくのがその当時の楽しみの一つであった。
その後、「あさりちゃん」が誕生。子どものころの思い出と記憶が「あさりちゃん」の大きな柱になっている。本を読むことが好きだったからネタの蓄えがあった。忙しくなるにつれだんだん本を読まなくなり、5年くらいたった時には自分の中で蓄えがなくなった。ふとネタが出てこなくなったことにはっと気づくと、ここ何年も本を読んでいなかったのである。しかし、他の作者のマンガは読んでいた。当時は、全部を買うことはできなかったので、立ち読みがほとんどだったが、書店で目につくマンガはすべて読んでいた。悪いと思ったが、紐のかけてあるものも紐を外して読んでいた。漫画家の中にはマンガをあまり読まない人がいるが私にとって漫画を読むことが大事だったし、ネタにもなっていた。一番嫌だったのは、自分のネタと同じマンガがあった場合である。自分で考えたつもりのネタが、誰かの盗作だろうと言われる事が一番怖かった。
デビューしてから今まで、締切から「逃げない」、「落とさない」を守ってこられたお二人。この理由は、1回でも締切を守らなかったら、長年かけて築き上げてきた信用も信頼も一瞬で失ってしまうからである。しかし、これを守ってきたことで漫画家となってから1カ月と仕事が空いたことがないのである。
最近は、大人と同等に話すことが平気になってきている子どもたちが多くなっていると思う。これは悲しいことだと思う。子どもは子どもらしくあってほしい。そのためにも、読書をたくさんしてほしい。読書をすれば、相手のことを考えるようになるし、感受性を高めることもできる。また、時間の使い方が上手になってほしい。今の小学生は、塾に行ったり習い事をして、「忙しい忙しい」と言う。これは、時間の使い方が下手なだけなのである。学校以外での活動があろうが無かろうが、もっとのびのびと、屁理屈をこねることなく子どもらしく過ごしてほしい。とエールを送ってくれた。(平成16年11月1日号広報たまな)
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