松岡健一さん
最初はサッカーだった
〜野球への想い〜
平成17年春に大学を卒業してプロ野球ヤクルトスワローズに自由獲得枠で入団した松岡健一投手。
この年プロ野球にドラフト会議で指名され入団したのは80数人。そのうち自由獲得枠での入団は13人。自由獲得枠選手は、アマチュア野球界でも、抜群の野球センス・技術を持ち合わせ、活躍したものが、プロ選手として即戦力を期待され入団できるのである。
また与えられた背番号も重要な意味を持ってくる。ヤクルトスワローズの背番号「21」はかつて、1993年にドラフト1位で入団した伊藤智仁投手が付けていた。入団開幕からローテーション入りを果たし、投球回数を上回る三振を奪い、新人王を獲得。1997年には、ストッパーも勤め19セーブを記録する活躍をする。メジャーリーグで活躍した吉井理人投手も背番号「21」をつけて活躍した。
そのエースナンバー「21」を、松岡健一投手はヤクルト球団から託されたのである。どれだけ球団から将来を有望視され、即戦力の期待が込められているか分かるであろう。
そんな松岡さんであるが、幼少の頃はサッカーがやりたかった。小学3年の終わり友だち5〜6人でサッカークラブへ申し込みに行ったが、サッカークラブは学校体育で小学4年からしか入ることが出来なかった。友達といろいろ考えた結果、みんなで野球クラブ(滑石少年野球クラブ)に入ることにした。
5年生の夏、県スポーツ少年団軟式野球大会でキャッチャーを務める松岡くん
そんな彼の野球人生は、小学校の時から始まった。
野球クラブに入り、4年生の初夏の時期、クラブの6年生がスポーツ少年団軟式野球大会で、宮崎で行われた九州大会に県代表として出場を決めた。この大会に一緒について行ったのがきっかけとなり、野球への関心は深まり、のめり込んでいったのである。
もともと父親が野球好きだったので、その影響もあり野球への関心がますます深まっていったのである。
最初のポジションは、体が他の子より大きかったのでキャッチャーだった。5年生の夏、蛇ヶ谷公園で行われた試合中にキャッチャーフライをおいかけて顔面からフェンスに激突するなど、気迫あふれるプレーを見せていた。
小学校から中学校まで、一緒に野球をしていた友達の粟田京輔さんは、「松岡は、野球に対しての気持ち・姿勢が誰にも負けない自分というものをその頃から持っていた。いつもは優しい彼だが、こと野球に関しては、自分だけではなくチームメイトにも厳しかった。」と語る。野球は一人ではできない、チームプレーだという気持ちの表れであろうか。
5年の終わりに試合に勝つためにはピッチャーを増やさないといけないと監督の考えのもと、肩が強かった松岡さんは、友達の期待を受けてピッチャーに転向することになる。
ピッチャー松岡の誕生である。(平成17年5月1日号広報たまな)
野球への情熱
〜連夜の特訓〜
小学5年生の時、キャッチャーからピッチャーに転向した松岡君。ピッチャー不足のためもあったが、小さいころから水泳をやっていたおかげで他の子より腰の入った球を投げていたからだ。「健(松岡君)、お前が投げなきゃこのチームは勝たんぞ」と激励の声をかけた、父親と同級生で、コーチをしていた伊東章さん。
県大会1カ月前、当時ライバルチームに7四死球を出して負けてしまう。その後県大会に間に合うように、練習後毎日9時くらいまで特訓をしていた。「健は、この時悔し涙を流していました。泣いたからといって野球への情熱はなくならず、20日間の特訓の成果は、県大会で実を結びました。これほどコーチをやっていて嬉しかったことはなかったです。」と伊東さんは、当時を振り返り懐かしそうに話てくれた。
野球に対する、情熱、意欲は更に強まりピッチングはもちろん、ランニングを日課に課して足腰の鍛錬を怠らなかった。大学に入っても、帰省の時は玉名駅から自宅までランニングで帰ることもしばしばだった。
玉名中学から、県内で野球の強豪東海第二高校へ進学。はじめは県内一の強豪熊本工業高校に進学したかったのだが、滑石(小浜)の4つ年上の先輩中川浩介君が東海第二高校の野球部にいて、よくその試合を見に行っていた。夏の大会で準優勝をしたりと先輩からもいいチームだと聞かされていたし、試合を見ていて気持ちが東海第二高校野球部に傾いてきた。甲子園への道を東海第二高校野球部で歩みだすことになる。
高校での生活は、親元を離れ寮生活となり、少しは親、姉がいない生活でさびしい気持ちはあったが、甲子園を目指す少年にとっては、野球一筋であり、野球に没頭した毎日で充実した日々を送ることができた。
親元を離れた息子を想い、両親は日曜日に寮で昼食が出ないことから、おにぎりなどを差し入れに持って行った。「高校生だから5〜6個くらい食べるだろうと、持っていくと、チームメイトにも分けてやっていました。」松岡君の優しさを垣間見るエピソードである。
高校3年の夏、高校野球選手権での3回戦、夏風邪を引いていた松岡君は、実力を出し切れず敗退してしまう。その悔しさに崩れ落ちそうだったが、周りの皆は体調管理の不手際を責めることなく、健闘を称えたのである。試合前までは進学は考えていなかったのだが、試合に負け周りの励ましもあり、大学へ進学して野球を続ける事を決心した。
東海第二高校へ通っていたせいもあり、他の大学からは声がかからなかったが、東海大学ではなく、九州東海大へ進学したのは、地元で頑張りたいとの思いがあったせいか。
大学に入り、1年生の夏からベンチに入った。3年の秋エースになり、4年の時副キャプテンも務め同僚後輩からの信頼も厚かった。最速148キロの速球とカーブ、スライダーが武器の本格派右腕として秋季中九州リーグで初の完投勝利を収めMVPに輝き、九州地区大学選手権でチームを7季ぶりの優勝に導き、6月全日本大学選手権で8強入りに貢献した。プロ野球からも注目されるようになり、ヤクルトのほか6球団が興味を持った。(平成17年6月1日号広報たまな)
プロの洗礼
〜新人王へ向かって〜
「持ち味である直球と変化球のコンビネーションを生かして活躍し、子ども達の目標になるような選手を目指したい。」とヤクルト入団後の抱負を語る松岡選手。
大学4年になり後輩たちを指導する立場で、自分の投球論を後輩に教えなくてはいけないから、その課程で自分の投球フォームを入念にチェックする。こう投げれば腰の回転力が効いて、軽い力で速い球が投げられる事が分かった。制球力もつき自分のためにもなった。
ヤクルトの一軍キャンプで古田敦也捕手相手に投球練習をしていると、「フォーク投げへんの?」と指摘される。もう少し練習してから投げる予定だった球種を、球界を代表する古田選手に要求され、しどろもどろになり、苦し紛れにスライダーを2球投げてしまった。要求したフォークを拒否された格好になった古田選手は、無言でブルペンを立ち去ってしまった。
キャンプも終盤にさしかかり、この日も練習試合が2試合続けて雨で中止。すでに実践練習の時期であるのに、のんびりしすぎている新人に活を入れ、「プロで活躍する選手は縦の変化球が必要だ。ブルペンで練習しなくてどこでするのか。」と叱咤激励であり、愛の鞭だった。
「自分の向上心が全然出ていなかったのがだめだった。試合で打たれて分かるのでなく、その前に気づかなくてはいけない。そこを自分で分かってなく気づかなかった。その余裕もなく悔しかった。プロの考えは深い、自分の考えを直さなくてはいけないと思った。」とプロの洗礼を受け、反省し切りの松岡選手だった。ピッチャーは繊細で、かつ完全主義者やプライドが高い人が多いので、未完成のものは隠すような所もあるのかも。が、すぐに結果を出す事が求められる自由獲得枠の選手は大変である。
「先発ローテーションを狙いたい。いつのまにか自然にというのでなく、プロに入ったからには狙って結果につなげていかなくてはいけないと思います。不安が自信に変わるときが一番伸びる時なので、常に狙っていきます。」と熱く宣言した松岡選手。
そんな中、2月下旬、練習中右肩に張りを訴え、「右肩関節周囲の炎症」と診断され、しばらく二軍で調整することになる。「変化球を投げるうちに肩に張りが出てきた。今無理する時ではない。」と二軍練習場で、一人黙々と練習と調整に励む。3月下旬には、肩の張りも引き、そろそろ投球練習もはじめようかと思うまで回復、二軍で十分調整し、一軍で新人王を取るような活躍を誓ってくれた。
高校球児のあこがれ甲子園には出場できなかったが、子どものころから夢だったプロ野球選手になれた。「今までお世話になってきた方々に、活躍する事で恩返ししていきたい。プロ入りしただけでは恩返しにならない。「活躍してなんぼ・・」プロはそういうところだと思っています。自分が活躍する事によって、子ども達の目標になり、野球ファンも増え、玉名に松岡杯野球大会なんかできたらいいですね。」と、これからの活躍を約束してくれた。(平成17年7月1日号広報たまな)
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