西南の役玉名戦記(玉名市歴史ガイドブック ふるさと文化財探訪改訂版より)
明治10年(1877)2月14日、薩軍は鹿児島から熊本に向けて、南国では珍しい豪雪の中を出発しました。熊本鎮台が置かれている熊本城では、既に1月上旬から2月上旬にかけての鹿児島の弾薬強奪事件の報を受け、2月7日ごろから食糧の買い入れなど籠城の準備を進めていました。乃木希典少佐率いる第14連隊第1大隊左半大隊も19日に熊本城に入りましたが、同日に原因不明の出火によって、天守閣などが焼失してしまいました。そのような中で21日には薩軍の先発隊が川尻に到着し、以下続々と熊本に迫っていました。
薩軍挙兵の報を聞き、熊本でもそれに呼応する動きがありました。藩政時代の学校党と呼ばれる一派を主体とし、玉名郡横島村に居を移していた池辺吉十郎を隊長とする熊本隊や、自由民権を唱える一派で構成された熊本協同隊が挙兵しました。
薩軍は2月22日ごろから熊本城下を占拠し、熊本城攻撃を開始しました。薩軍による猛烈な攻撃で鎮台参謀長樺山資紀中佐が負傷、第13連隊長與倉知実中佐が負傷後戦死という被害にもかかわらず、城は落ちずに戦況は膠着状態となりました。
熊本城の攻防戦と並行して、福岡方面からやってくる官軍と、それを迎え撃とうとする薩軍が、各地で接触して激しい戦闘を行っています。22日に、北九州の小倉からの第3大隊右半大隊と、熊本城を出ていた乃木少佐の第1大隊左半大隊が高瀬で合流して熊本城へ向かおうとしましたが、植木周辺で待ち伏せしていた村田三介率いる第5番大隊2番小隊と戦闘になり、さらに伊藤直二率いる4番大隊9番小隊が加わり白兵戦になりました。この戦いのあと官軍は木葉に、薩軍は鹿子木(熊本市)にそれぞれ引き返しました。22日の夜に植木で衝突したという知らせで、熊本城包囲中の薩軍から6個小隊1200名が23日午前3時に高瀬方面へ向かいました。
高瀬には、県北各地で戦闘が始まりつつある中、続々と官軍が集結していました。山鹿は薩軍の一隊と熊本協同隊などが占拠しており、官軍は南関、高瀬方面を確保していました。高瀬は陸上交通と海上交通の接点でもあり、兵站地として重要な拠点でした。官軍は、繁根木八幡宮一隊と繁根木川沿いの船隈(船島)を本営とし、高瀬川右岸を中心に部隊を配置していました。そこに薩軍が迫り、伊倉に駐屯した熊本隊などが高瀬川左岸を中心に展開し、23日から27日にかけて高瀬川周辺で激しい戦闘となりました。薩軍はこの戦いで西郷隆盛の弟で1番大隊1番小隊長の西郷小兵衛が戦死しました。
高瀬の戦いは官軍優勢であり、薩軍は高瀬方面から撤退しました。熊本城も未だ陥落せず、次の戦いは最大の激戦地となった田原坂・吉次峠付近に移っていきます。
当時の高瀬から熊本へ向かう主要道は、高瀬-木葉-植木を通るルートでした。最も整備された道で馬車などが通行可能で、大量の人員や物資弾薬の輸送に必要不可欠な道でした。それ以外にも、金峰山系の二ノ岳、三ノ岳の丘陵を山越えするルートもあり、吉次峠付近を通って熊本へ向かうことが可能でした。木葉-植木間の、木葉川から植木の台地上へ登っていく地点にある田原坂は、狭く曲がりくねり、高低差がありました。薩軍はこの田原坂を中心に強固な陣地を構築し、吉次峠、半高山付近の丘陵にも兵を配置して高瀬から熊本へ進軍してくる薩軍を撃退しようとしました。3月4日ごろから田原坂の薩軍に官軍が攻撃を開始し、この日から約17日間に渡って死闘が繰り広げられました。官軍は最新の装備で武器弾薬も豊富でありましたが、薩軍は実戦で鍛えられた歴戦の士族であり、装備の劣勢を白兵戦での切り込みで補い、両軍とも一進一退の攻防を続けていました。薩軍の切り込みに対しては、戊申戦争で恨みを持つ元会津藩出身の警視庁巡査たちが抜刀隊を編成して対抗することを申し出て、高瀬で急遽集められた日本刀を受領し、戦線へ突入していきました。戦いは兵力・物量に勝る官軍に次第に有利に進み、田原坂の薩軍は敗退しました。4月になると吉次峠を守備していた熊本隊も敗退し、官軍によって退路を絶たれることを恐れた植木、三ノ岳方面の薩軍は、ついに4月15日一斉に退去、落としきれなかった熊本城も囲みを解いて木山方面に撤退しました。その後は御船、人吉などで薩軍は敗退を続け、最後は鹿児島の城山に籠り、西郷隆盛以下自決して戦闘は終わりました。
高瀬の戦いは、薩軍が攻勢に出て最も北上した所でした。薩軍にとって県北の要所である高瀬を確保できなかったことは、その後の戦況に大きく影響し、受け身に回って田原坂での決戦を余儀なくされました。官軍にとっては、重要な兵站地を確保できたことで、田原坂の戦いを有利に進め、勝利に導くことができました。田原坂の戦い以前に、高瀬の戦いの結果によって西南戦争の行方は決まっていたのかもしれません。この戦いで高瀬の街並みの多くが焼失してしまいました。火災は主に町域の南側一体が中心で、高瀬町188戸、繁根木村60戸、永徳寺村52戸に及びます。高瀬御蔵、御茶屋はこの時完全に焼失しました。また民間人も軍夫として徴用され、食糧弾薬の輸送などの作業に従事しました。軍夫の募集は、各村に割り当てがあり、なり手がいない場合は村の役人が勤めることもありました。参加した軍夫やその他の民間人も戦闘の巻き添えで死亡・負傷することがあり、手当金が支給されました。高瀬の寺院は繃帯所(病院)として利用され、田原坂の戦いなどで多くの負傷者が運ばれてきました。2月22日には小繃帯所、3月3日には延久寺に大繃帯所が設置され、戦いが大きくなるにつれ、続々と負傷者が運ばれてきました。病舎はすぐ満員になり、収容しきれない負傷者は南関を経て久留米方面へ輸送するようになりました。当初は陸路輸送であり、人数の増加で対応困難であったことから、晒や長洲の沖洲で船が手配され、海路にて久留米へ輸送しました。高瀬にはその後、官軍墓地が設置され、陸軍将兵、警視隊巡査など395名が葬られました。昭和30年代に改葬され、現在は合祀塔が建っています。高瀬の戦いの繁根木川堤防沿いで、西郷小兵衛が銃弾に倒れた際には、永徳寺村の橋本家の雨戸を借り受け、小兵衛を薩軍本営まで運びましたが途中で絶命しました。後日、夫人から感謝の書簡が送られ、現在も橋本家に保存されています。昭和10年永徳寺の繁根木川堤防に、西郷小兵衛戦死の碑が建てられました。
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