高瀬官軍墓地
1.指定内容
指定記号番号
玉市指第75号 指定区分 史跡
名称
高瀬官軍墓地
指定(告示)年月日
平成27年7月21日
告示番号
玉名市教育委員会告示第10号
面積
2185.21平方メートル
所在地(地番、地目、地積を含む。)
- 玉名市高瀬字横町338番1 宅地 710.15平方メートル
- 玉名市高瀬字横町338番4 宅地 732.00平方メートル
- 玉名市高瀬字横町338番5 墓地 388.00平方メートル
- 玉名市高瀬字横町338番6 宅地 355.06平方メートル
所有者及び権原を持つ占有者(権原内容を付記する。)並びに管理責任者の氏名又は名称
- 玉名市高瀬字横町338番1:所有者 玉名市
- 玉名市高瀬字横町338番4〜6:所有者 国 管理者 玉名市
2.西南戦争と高瀬
明治10年の西南戦争では、2月下旬から3月にかけて、高瀬から田原坂付近で激しい戦が繰り広げられ、多くの死傷者が出ました。政府軍戦死者は、県内全体で数千人にのぼります。県内に21カ所、玉名市内では高瀬町字北屋敷に官軍墓地が設置されました。高瀬官軍墓地の墓碑銘によると、田原坂・吉次の戦いで負傷し、高瀬町の病院(町内の10カ寺程度)に収容された後死亡した人が多くを占め、全395人分(内警視隊墓地18人)の墓碑が設置されました。
高瀬官軍墓地は昭和38年に改葬されて合祀塔に祀られ、跡地に第3保育所が設置されました。その後平成4年に保育所が解体された後は広場となっていました。平成24年に地元などから再整備の要望があり、再利用を検討していく中で埋蔵文化財の調査を行ったところ、敷地内にはまだ改葬されていない墓壙や人骨が残っていることがわかりました。このため玉名市の史跡として指定し、かつての高瀬官軍墓地の面影を大切にしながら利用方法を検討しています。
3.高瀬官軍墓地の歴史
明治10年 西南戦争
明治11年 官軍墓地造営 陸軍、警視局戦没者395名の墓石建立
昭和38年 改葬
昭和39年 高瀬児童遊園地設置
昭和40年 玉名市立第3保育所着工
昭和41年 合祀塔建立
平成 3 年 第3保育所廃止
平成 4 年 保育所解体
平成24年 玉名町区長会長及び地域住民から「官軍墓地跡地(元第三保育所跡地)再利用整備についての要望書」提出。
平成26年 埋蔵文化財確認調査
平成27年 「高瀬官軍墓地」として玉名市史跡に指定
平成28年 埋蔵文化財確認調査
4.高瀬官軍墓地の現況と埋蔵文化財確認調査状況
高瀬官軍墓地は、高瀬の街並みの北側に位置します。付近は願行寺や、現在は廃寺となった清源寺があり、寺院の一角に整備されました。古写真などから、周囲に石垣と土塁を巡らして方形に区画し、墓碑が並べてあった様子がわかります。
平成28年の調査では、墓壙が確認され、人骨のほか、弾丸や身に着けていた服のボタンなどが出土しました。墓地周辺には氏名が明らかな墓石がまだ残っているのが確認されました。人骨は、溝のような穴に寝かせた状態と、一人分の穴を掘り、甕に埋葬された状態で見つかりました。
平成28年の調査でも人骨が確認され、溝のような穴に座らせた状態で埋葬されていました。溝の一部を掘って一体分の人骨が検出されたため、溝の未掘部分にはまだ何体分が埋葬されているとみられます。平成26年の調査と同じように、ボタンなどが出土しました。 調査結果から、さまざまな埋葬形態で葬られていたのが判明し、墓碑の状況とは大きく異なる状態でした。
高瀬官軍墓地は、西南戦争での高瀬の戦いの激戦を物語る場所として貴重であり、静かな慰霊の場としても、今後大切に保存していく必要があります。
関連記事リンク
カテゴリ内 他の記事
- 2024年1月15日 肥後四位官郭公墓
- 2021年3月4日 池邊吉十郎の墓
- 2021年2月22日 年の神支石墓
- 2021年1月25日 安世寺墓塔群
- 2019年3月16日 伝左山(でんざやま)古墳
- 2017年10月19日 宝成就寺跡古塔碑群・石仏群
- 2015年2月25日 振倉謝公墳