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草枕の道ガイド

更新日:2011年8月12日

明治29年4月13日、第五高等学校教師として熊本入りした夏目金之助先生は、池田駅(現上熊本駅)に降り立ったのでした。

翌30年の暮れも押し迫った頃、熊本で3番目の住まい大江村の家を出た金之助(漱石)先生は、正月をゆっくり過ごそうと小天温泉・前田家の別邸へやって来ました。

 この旅が、小説「草枕」のモデルとなった、いわゆる「草枕」の旅というわけです。

熊本市郊外から2つの峠を越えて旧道筋に設定された「草枕」の道には、いたるところに往時の面影が残り、小説「草枕」の道中編(第1章、2章)を、そして到着した前田家別邸では第3章からの物語を体感することができます。
  

鎌研坂(かまとぎざか)

鎌研坂の画像熊本市島崎の岳林寺を起点として設定された

「草枕ハイキングコース」。

最初のポイントは鎌研坂。

登り続けた金峰山の谷あいを抜けるところにある。「山路を登りながら、こう考えた」。おなじみの冒頭の一文。その山路がこの鎌研坂あたりと考えられている。


 

鳥越の茶屋跡

鳥越の茶屋跡の画像「おい」と声を掛けたが返事がない。軒下から奥をのぞくと煤けた障子が立てきってある。向こう側は見えない。(「草枕」より) 

「草枕」には峠の茶屋は一軒しか出てきませんが、当時、熊本から小天への道中には、ここ鳥越(とりごえ)と野出(のいで)の二つの茶屋がありました。

鎌研坂を抜けた所が鳥越の茶屋跡。井戸跡が面影を感じさせます。

現県道との間には現代の茶屋が営まれ、往時の茶屋を復元した資料館も建っています。


 

金峰山麓

金峰山麓の画像路は存外広くなって、且つ平らだから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。帽子から雨垂れがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音がして、黒い中から、馬子がふうとあらわれた。「草枕」より 

鳥越峠を過ぎ、金峰山の北の谷あいを歩くと趣のある竹林に出会う。この竹林のトンネル、入り口に立って奥をみつめると、作中のこの一節を感じさせます。


石畳道

石畳道の画像『草枕の道』の大半は、明治30年当時、熊本と高瀬(現在の玉名市)を結ぶ往環でした。

追分の交差点そば。そこには、往時をしのばせる左河内、右野出の道標が立っていて興味深いところです。

追分を天水へ数十メートル先、県道から山あいに分け入ると中ほどから石畳が始まります。

ここは往時の面影を深く残しているところで、散策するファンに最も人気があるところです。

薄暗く、苔むし、竹の落ち葉におおわれた石畳の中にたたずめば、いつくしか世俗を忘れ、向こうから漱石先生が歩いて来るような錯覚さえ覚えます。


 

野出の茶屋跡(のいでのちゃやあと)

野出の茶屋跡の画像ここまで来ると眼下に海が見えます。右手に有明海と雲仙。左手に宇土半島を隔てて天草の遠望。かつては、ここに隣接して茶屋が建っていました。

当時、小天からは馬に背負わせたみかんを熊本市新町の市場に出荷していました。朝まだ暗いうちに家を出て、峠にさしかかるころ明るくなる。この茶屋には各戸が預けた提灯が軒先に並んでいたといわれています。

二つの峠の茶屋。小天の人々には野出がより身近な存在だったようですが。今は、幹線はむろん一般道からも離れ、行き交う人も少ないところです。間もなく市境。那古井の里・小天は目前。

「-山を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場だ。」(草枕より)
 野井の茶屋跡


 

「白壁の家」前田家本邸跡

「草枕」の中に、『二丁程上ると、向こうに白壁の一構えが見える。蜜柑のなかの住居だなと思う。-』と書かれているのが八久保の前田家本邸のこと。

屋敷の様態はあきらかではありませんが、「2階建ての母屋に2棟の茶室、新旧の蔵と黒門があったということ。新蔵には滔天から頼まれて外国人を住まわせたことがあり、人が住めるようになっていたと聞いている」(案山子の曾孫談)

「城下(熊本)まで他人の土地を踏まずとも行ける」というほど栄華を誇った前田家だが、長年にわたる政治活動のうえ、親兄弟のいさかいによる分裂騒動をきっかけに急激に衰退。

明治34年12月24日夜の失火によって本邸は焼失。小天のシンボルであった「白壁の家」はついに再建できませんでした。

漱石画「わが墓」のモデル 前田家墓地


有明海に浮かぶ雲仙と思われる中に一つの墓石を配した漱石作品「わが墓」は、この前田家墓地からの眺めがモデルといわれています。

「僕は帰ったらだれかと日本流の旅行がしてみたい。小天行きなど思い出す」とは、漱石がロンドンから、一緒に小天に旅した五高時代の同僚・山川信次郎へ宛てた手紙。

そのころ、英国留学中の漱石は心身共に苦しい状況にあったといい、そんな中で日本での思い出として前田家別邸での数日が蘇ったのでしょう。

帰国後、ほどなくして、この絵は描かれ、その後「草枕」も執筆しています。それほど小天の記憶は鮮明だったのか。小天はまさに、漱石にとって桃源郷だったのでしょう。
  

宮崎龍介の学び舎・八久保小学校跡

旧八久保尋常小学校の跡。碑文は宮崎龍介筆です。

明治30年頃、ここに前田案山子の三女槌(つち)の長男龍介が学んでいました。荒尾の宮崎家に嫁いだ槌は中国革命運動へ没頭し、家庭を顧みない夫(宮崎滔天)に代わり、石炭販売などで家計を支えていたと言われています。

その際、前田家を頼って預けられた龍介は、八久保小学校で4年間学び、卒業証書を得、さらに隣町の伊倉高等小学校へと進んでいます。

その後、東京帝国大学へ進んだ龍介は、筑豊の石炭王伊藤伝右衛門の妻であった歌人柳原白蓮と知り合い、“大正のロマンス”で知られる恋愛の末結ばれています。
  

日潮士・前田案山子の墓

「草枕」の中で「白い髭をむしゃむしゃと生やし」た「志保田」の隠居。このモデルが、第一回衆議院議員(明治23年)を引退し、別邸で隠居生活をしていた前田案山子です。

細川藩の槍指南であった案山子は、維新に際し、今後は農村、農民を支援するという意味から田んぼの「カカシ」を名のり、自由民権運動家となりました。

その功績の一つに、度重なる塩害に加えて明治政府が始めた課税措置等に苦しむ干拓地農民を救うために免税運動を行い、長い年月をかけ、50年間の免税を勝ち取っています。

案山子は漱石が訪れた7年後の明治37年に亡くなりましたが、墓碑には貫いた信念を誇示するかのように、贈られた“日潮士”の名が刻まれています。

「鏡ヶ池」と前田家第二別邸

「鏡ヶ池」と前田家第二別邸の画像

 漱石が泊まった前田家別邸に隣接し、いずれも当時は前田案山子の別邸であったこの庭池が「鏡が池」のモデルの原型です。

 この屋敷には、一時中国の革命家・黄興が匿われていた。この時「村に侵入する得体の知れない人物(清朝の工作員)は村民が見張り、剣術家の行蔵、九二四郎(案山子の三男、四男)は護衛隊を指揮し、夜は自ら真剣を差して屋敷周りを巡回していた」と聞いています。


「私が身を投げて浮いている所を、苦しんでいる所じゃないんです。やすやすと往生して浮いている所を、綺麗な画に書いてください」「草枕」より
 
「鏡が池」をめぐる画工と那美の会話のこの部分を描いたのが『草枕絵巻』の中の「水の上のオフェリア。」そして、この元になった絵が英国の名画「オフィーリア」(ミレイ作)。

この、オフィーリア、実は映画「崖の上のポニョ」の原点にもなった絵なんです。漱石は、英国で「オフィーリア」に出会い、小天の「鏡ヶ池」が甦り「草枕」で融合させたのではないでしょうか。

絵は2点とも草枕交流館に複製を展示してあります。


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