俳優養成のスペシャリスト 冨田浩太郎さん
〜夢を求めて〜
「テレビや映画で活躍する教え子の姿を見るのが一番幸せです」。
と数々の有名俳優を世に送りだした「玉名人」。俳優養成のスペシャリストで元俳優、劇作家の“冨田浩太郎さん”。
旧制玉名中学(現玉名高校)、宮崎高等農林畜産学科(現宮崎大学農学部)を昭和23年に卒業後、九州学院高校で生物の教師となる。
「高校教師になろうと思ったのは教授から『先生になりなさい。君は理論家だから』と言われたのもありますが、実は何もやることがないから先生でもやろうかと思ったんです。本当に当時の生徒には申し訳ない次第です」と苦笑して話されていた。安定した教師生活を捨て、俳優の道へ進もうと2年足らずで上京を決意。その短い教師生活だったが今でも冨田さんを師と仰ぐ生徒は少なくない。熊本を中心に活動する人形劇団「熊本たけのこ会」は、当時の九州学院演劇部の生徒が中心で昭和28年に発足。その代表を努める塘添亘男さんは当時の冨田さんを「よく若者の気持ちを分かってくれ、生徒にとても慕われていました。九州学院の演劇部を作ってくれ、私たちに劇という素晴らしいものを教えてくれたのも冨田先生です。演劇にはとても厳しかったが、部員全員が、冨田先生の情熱と共に頑張ったのも今では、懐かしい思い出です」。しかし上京する冨田さんを一時は恨んだ時期もあったという。
当時、冨田さんが住む、上通りの下宿先は、冨田さんを遊び相手にしようとする生徒でいっぱい。特に給料日ともなるとおごらされて、文無しになることもしばしば。あまりの主客転倒に下宿先を変えたりもしたとか…。そんな楽しくもあり、安定した教師生活を捨て、昭和25年、俳優の夢を求め上京。昭和27年、新協劇団演技研究生となり、劇団民芸に入団。その年映画「真空地帯」でデビュー。昭和33年「胸より胸に」で有馬稲子の相手役に抜てき。内田吐夢の「森と湖のまつり」など数々の映画に出演。
昭和33年に、劇団青俳に移り、フジテレビの連続ドラマ「少年探偵団」で名探偵明智小五郎役を演じ、少年ファンに絶大なる人気を得た。売れっ子タレントだった冨田さんは、レギュラー番組が週にテレビ3本、ラジオ2本、毎日朝から晩までノンストップ。これらの多忙な仕事の無理がたたり、昭和36年、肺結核の宣告。しかしこの病床生活との闘いに決してめげることはなかった。というよりもそれを跳躍台として再出発。それは“俳優”から“作家”への転向だった。
病床生活を跳躍台として〜作家としての再出発〜
冨田さんは、2年間の病床生活にめげるどころか、それを跳躍台とし再出発を果たした。
“俳優から作家への転身”病床生活で練りに練って完成した作品は、原爆症問題を扱った、自作自演によるテレビドラマ「うぶ声」。
広島原爆祈念日の8月6日の前夜に放送されたこのドラマは、妊娠した被爆者の不安、苦悩から健康児の出産までを描いたもの。放送後、大きな反響を呼びその後5回にわたって再放送された。
この作品を冨田さんは当時「現存する被爆者は統計的には全く健康であるのに、原水協の運動はなんでもかんでもマンネリ化した悲惨強調一点張り。こんな現実無視のやり方ではだめだ。私はこの作品を原水禁運動の一つの修正として発表しました」と語っておられる。
後にこの作品は、芸術祭奨励賞を受賞した。その後も原爆症問題を扱った作品やその時の問題に目を向けた作品を書き続ける。俳優出身の作家である冨田さん。もちろん作品は自作自演。ペンと体で人々を魅了し、夢を与え続けた。
昭和40年代後半になると、体力も少しずつ回復し、作家活動をしながら、俳優の仕事も増やしていき、円谷作品のウルトラマンや舞台などに出演するようになる。
演技者としての成功を収めてきた冨田さんは、俳優養成所の講師も努めるようになり、舞台と作家活動の合間を縫って、俳優を志す者にも全力で指導にあたった。その中でもいわゆる有名人として現在活躍しているのが、冨田靖子さん、中井貴一さん、福山雅治さん、松下由樹さん、須藤理彩さんなど。
努力を味わい楽しめることが大切
「表面的な新しさ、珍しさにだけとらわれ、技術を無視したお芝居ごっこではだめ」
本物の舞台と演技を観客に見てもらおうと、的確で深く豊かな真実感のある舞台を求め続けてきた富田さん。
「彼らの演技に対する努力にはとても感服します。レッスンが終わっても、私から演技力の何かを盗もうという必死さがひしひしと伝わってきます。私も彼らに教えながら学んでいる気がしますよ。だから私はこの仕事にとても満足しています」と笑顔で話されていた。
数々のスター俳優を育て、富田さんの演技に対する情熱は今もなお彼らに引き継がれている。晩年一番の楽しみは、自ら手がけてきた役者が、テレビや映画などで活躍する姿を見ること。
富田さんが手がけてきた役者で思い入れのある役者は、NHK朝の連続テレビ小説『天うらら』の主役「うらら」役を演じた須藤理恵さん。平成10年4月から10月までの全156回を見事なまでの活躍で、無事終了しメジャーデビューした。「彼女はとても演技がうまかったにも関わらず、過密な撮影スケジュールの中『レッスンお願いします』と私のところへ通った努力家でした。何が自分に足りないか何をすべきかを必死に聞き取り、努力する姿をみて、指導する私も力が入りました」と誇らしげに話されていた。
思ったことを上手に人に伝えるにはどうしたらよいのだろうか。「演技者としての成長を妨げる原因の多くは、実はごく簡単なことで『小さな基礎的欠陥』にあると言える。つまり『小さな一つひとつの基礎的なことができていない』ということ。しかし、特に『声、言葉』という問題においては、この『小さな基礎的欠陥』がとても分かりにくいことを、自分の音声のチェックいわゆる長所の開発、欠陥の矯正や『癖からの解放』ということを通して会得していく。演技者を志すならば、これらの鍛錬を抜きにしてはとてもまともな演技者になることはできないと言うことを認識して、それまで学んだことを道しるべに、自己訓練することが何よりも大切で、表現力は社会に生きる上で必要不可欠なこと」とレッスン生によく話されていた。
「楽して得することは何もありません。その時々の指導者、先生に何が自分に足りないか、何をなすべきかを聞き、素直な気持ちで受け入れることが大切です。もちろん好きなだけでは何も手に入らない。努力することが大切です。また、それを味わい楽しめることが大切なんですよ」と物事を人に伝える力。表現力をいかに引き出すか。それが富田さんの挑戦だった。
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冨田浩太郎さんの足跡
年代 | ことがら |
---|---|
大正14年(1925) | 1月30日、富川良策(眼科医)、桃香の長男として天草で生まれる 3歳のとき、父良策死去。以後母の実家(玉名市大浜町)で育つ。 祖父冨田正雄の次男として入籍。富川浩太郎から富田浩太郎となる。 |
昭和18年(1943) | 熊本県立玉名中学校卒業 |
昭和20年(1945) | 宮崎農林専門学校 農学部畜産科入学(現宮崎大学農学部) 陸軍に招集され入隊8月終戦と共に復学 |
昭和23年(1948) | 九州学院高等部へ生物の教師として就職 |
昭和25年(1950) | 退職し演劇への道を目指して上京 豊島区立大塚中学校へ生物教師として就職 昭和27年(1952):新協劇団付属演劇研究所に入る 劇団民芸の準劇団員の公募に応募し入団 大塚中学校を退職し、プロとして舞台に立つ |
昭和33年(1958) | 民芸退団。劇団青俳に移る。フジテレビの連続ドラマ「少年探偵団」で名探偵明智小五郎役を演じ、少年ファンに絶大なる人気を得た。その後、フリーになり俳優の仕事と若手の指導にあたる。所属「俳協」(俳優生活協同組合) |
昭和36年(1961) | 肺結核で療養生活 |
昭和39年(1964) | 仕事に復帰 |
平成16年(2004) | 6月10日、享年79歳で永眠。 |
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