堀川征孝さん
社の戦略は「碁」の心得
〜中学生で学んだ囲碁が生きる〜
製粉界最古参で国内第2位の日本製粉株式会社社長の堀川征孝さん。
日本製粉株式会社は、連結売上高2、013億円、在籍従業員2、291人(平成14年度)を擁する一部上場企業である。明治29年に日本最初の近代的機械製粉会社として誕生し、製粉事業を核にプレミックス、パスタ、冷凍食品、中食関連食品など多角的な事業展開を行っている。最近では、バイオ事業で大腸がん・前立腺がん簡易検出システムの開発で注目を集めている。業務用製品の比重は高いが、家庭用製品でも「NIPPN(ニップン)」や「オーマイ」のブランドはスパゲティや天ぷら粉・ハート印の小麦粉で広くその名を知られている。
その様な会社で、改革への旗手としてまた、更なる会社の躍進の為、2002年6月、常務から一気に9人抜きで社長に抜擢された。
堀川さんは、昭和16年4月、駐在所勤務の警察官だった父敏雄さん・母ミツエさん(故人)の5人兄弟の長男として誕生。当時ヤミ米が横行していた時代で、駐在所は毎年勤務替えになっていた。そのため、小学校6年間で6回の転校を余儀なくされた。
転校するたびにいじめの対象になり、クラスのボスとけんかばかりしていた。「今のような陰険ないじめでなく、顔なじみでないから新顔だからと言ってけんかしていました。一種のあいさつ代わり、スキンシップみたいなものですよ」と当時を振り返り懐かしそうに話された。
小学6年生を伊倉小学校で送り、玉南中に進む。伊倉小学校時代、学校挙げて「ウサギ狩り」をしていた。食料のない時代だったので必死にウサギを追いかけたが、すばしっこいウサギは子どもたちに捕まるはずもなく、ウサギ肉の入ってないウサギ汁をすすった。
中学校での3年間は野球部に入部。ピッチャーで4番バッターとして活躍。盆と正月以外は毎日練習に明け暮れていた。上下関係は厳しかったけど、練習の後、先輩がスイカなどを振舞ってくれた。当時の厳しい練習で養った丈夫な、中肉中背の引き締まった体が今も役立っていると、精悍な顔を撫でながら自信ありげに話された。
また、囲碁を中学の頃、友だちの父親から教えてもらい、その上達ぶりは素晴らしかった。就職してからも昼休み、単身赴任の時期も町道場に通い腕を磨いた。「今は腕が落ちたが、当時で4段ぐらいはあっただろう」と堀川さん。
”最初は少々小さいところはくれてやっても、蓄えてきた厚みの力が終盤に出るのがいい。だけど必ずしも成果が出るとは限らない。力と自信の裏付けが必要で、余裕がないと先行投資の必要な厚みの碁は打てない”最初はいろんなものを犠牲にするし、経営に通ずるものがあるという。
(平成16年1月1日号広報たまな)
食材を扱う会社に入りたい
〜農作業の手伝いで興味を持つ〜
玉南中学校から玉名高校を経て九州大学経済学部に進まれた堀川さん。
大学でも、野球部に入部し九州6大学野球で活躍。勉強もそこそこ、やったとかやらなかったとか…。
両親の実家が農家だったこともあり、中学・高校ではよく農作業の手伝いをし、子どもの頃から米・麦などには興味があった。自然とそんな食材を生産販売する会社に入ろうか、また、将来の農業の繁栄のためになるのではとの志で昭和39年、大学卒業と同時に日本製粉株式会社に入社された。初任地は、神戸の工場であった。
入社の翌年、現在、家族の柱であり、中心でもある昌子さんと結婚。昌子さんは堀川さんと同じ伊倉出身の2歳年下。小・中・高校一緒で才色兼備と地元でも有名だった。「彼女は歌がうまくて、学校でもよく歌っていましたし、ラジオののど自慢大会で優勝したりして、目立っていましたよ」と照れながら話される堀川さん。
熊本で挙式をし、新婚旅行は阿蘇からやまなみハイウェイを通って別府へ出て、フェリーに乗って神戸へ。
「何のことはありません。神戸の社宅へ帰るまでが新婚旅行でした。」
神戸工場で8年勤め、本社では原料、資材、輸出関連など業務畑が主だった。
「製粉業界は国が原料を一括して管理していましたが、それを使用するのは私たち製粉会社なので、いずれ自由化になった時、生産地のことをよく知っておかないといけないということで、入社15年目に研修でアメリカを回らされました。英語もおぼつかないのに、レンタカーで広大な土地を回って随分失敗もし、苦労もしました。お陰で今は海外旅行が怖くなくなりました。」
平成8年小山工場長、同9年人事部長、同10年取締役人事部長、同13年常務取締役企画部長兼調査部長兼業務統括室長、同14年常務取締役を歴任。現在の代表取締役社長兼COOに至る。
「社長になってからプライベートの時間がほとんどなくなりました。好きな囲碁やゴルフをする時間がね。出張していてもファックスが追いかけてきたり。社長というのはこんなものかなと今さら思ってるんですけどね。」
今では、1男2女の子どもさんもそれぞれ独立され、埼玉県の郊外にある住まいに昌子夫人と2人暮らし。結婚されている2人の娘さんが孫を連れて遊びに来られるのが楽しみと話される。
(平成16年2月1日号広報たまな)
環境に配慮した商品開発
〜玉名の豊かな自然に育てられて〜
製粉事業では22パーセントのシェアを占める一方、最近では事業構造の変革に挑み、合理的な経営体制を構築。また健康産業やバイオといった多角的な事業展開によって、新しいフィールドをも切り開きつつある日本製粉株式会社。
「会社のスケールをもっと大きく、多角的で国際的に通用する食品会社にしたい。将来を担う、今の子どもたちも国際感覚をもっと持ってほしい。」
北は北海道から南は九州まで事業所があることはもちろんのこと、海外にも進出。アメリカのモンタナ州にパスタ工場、プレミックスの生産拠点をバンコクとロサンゼルスに持っており、現在中国上海では工場を建設中である。
「念ずれば通ず」を信念とされる。何ごとにも挑戦する努力を惜しまない堀川さん。
「企業社会というのは競争社会。突き詰めていうと食うか食われるか、勝つか負けるかです。勝ったところが残っていくし、負けたところはこの世界から消えていく当然の話。生き残って成長していかなければならない。そういう集団になるには、戦う集団にならなければならない。和気あいあいの集団もいいが、基本は戦う集団である。そして、外に力(製品)を出すためには中でも切磋琢磨し、戦う。内輪もめではだめ、基本は和であり、その上で、いかに集団の力が競い合えるかである。」と企業の意識改革について話される。
「玉名の豊かな自然に育てられただけに、環境に配慮した商品の開発にも力を入れていきたいと考えています。また、当社は食品会社です。常にクリーンでフレッシュなイメージが求められています。食の安全・安心を売る会社でなければなりませんからね。玉名で生まれ育ったことをうれしく思っています。」と、ふるさと玉名を誇らしげに話される。
「NIPPN(ニップン)」や「オーマイ」ブランドの天ぷら粉やスパゲティなどは、一般家庭にも広く浸透している。その日本製粉株式会社は現在、中期経営計画を実行中。明治29年に日本初の製粉会社としてスタートを切った、名門中の名門企業「日本製粉」の旗手、堀川征孝さんの挑戦はまだまだ続く。
(平成16年3月1日号広報たまな)
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