企画展 「朱印船貿易と肥後」
江戸時代の初め、大名や大商人が東南アジアへ朱印船(朱印を押した渡航許可証をもらった船)を出し、貿易をしていました。渡航先は、交趾(ベトナム)・暹羅(タイ)・呂宋(フィリピン)・安南(ベトナム)・柬埔寨(カンボジア)・高砂(台湾)です。慶長9年(1604)から寛永12年(1635)の鎖国まで356隻の船が貿易したことがわかっています。
荒木宗太郎
荒木宗太郎は、本姓は藤原氏で、名を一清、のち惣右衛門と改めました。もと肥後の武士で、天正16年(1588)長崎に移り住みました。東南アジアへの渡航は6回、暹羅(タイ)・交趾・安南(ベトナム)に渡りました。航海では、自ら船を操縦したといわれます。元和5年(1619)安南に渡航したとき、安南国主の娘を娶り連れて帰りました。妻王加久戸売との間に1女家須がありました。戦国時代末以来の高瀬町の商人に荒木氏があり、宗太郎も当地の人であった可能性があります。
池田好運
池田好運は、肥後の菊池の姓で、名を与右衛門、出家して好運といいました。長埼に住んでいました。元和2年(1616)ポルトガル人マノエル=ゴンサロとともに呂宋(フィリピン)に渡り、その航海中に航海術を学び、日本で始めての西洋航海術の書『元和航海記』を著しました。当時朱印船の操縦は、外国人のパイロット(安針)たちに頼っており、日本人にとって西洋の航海術は未知の技術でした。しかしまもなく幕府の鎖国政策によって、諸外国との往来が閉ざされることとなり、好運が習得した新しい技術は生かされることなく埋もれてしまうことになります。
柏原太郎左衛門
柏原太郎左衛門は、摂津(大坂)の生まれの武士で、父兵部左衛門とともに肥後に下り、商人となって熊本城下・小川町・長崎に「天野屋」という屋号の店を構えました。高砂(台湾)貿易に従事した末次平蔵と高砂のオランダ長官ノイツとの紛争(高砂事件)に平蔵の頼みを入れて参加。寛永5年(1628)末次平蔵の船で高砂(台湾)に渡りました。
加藤清正
肥後国領主の加藤清正は、慶長12年(1607)に西洋(澳門)、14年に暹羅(タイ)・交趾(ベトナム)へ朱印船を出しました。安南国主は船の来航を喜び、再びの来航と末永い両国の通商を期待する書状を送りました。清正の船は、『慶長日件録』に長さ30間・幅五間あまり・座敷を三重に設け、16畳の広間があり、風呂も備えていたと書いています。
四位官
四位官は、福建省海澄県三都(厦門のちかく)の出身、明朝に仕え四位官の位にありました。日明貿易に活躍しましたが、日本に来て朱印船貿易に従事しました。数回朱印船を交趾(ベトナム)・西洋(澳門)に派遣しました。
四位官は、伊倉に住んでいました。伊倉は、中国大陸との往来も頻繁な港町で、たくさんの唐人が住み、唐人町がありました。伊倉には明人の墓、四位官の墓や伊倉本堂山に謝公の墓振倉謝公墳があります。
林三官
林三官は、慶長九年から12年にかけて西洋・呂宋・占城(ベトナム)へ朱印船を出した貿易家です。林を名乗る人物としては、玉名郡天水町立花に墓がある「林均吾」(元和7年没)や加藤清正の船に乗って暹羅にいった船主「林右」があり、いずれも林三官の一族と考えられます。なお唐人町のあった伊倉の西、北牟田には「三官」の地名があります。
森本右近太夫
森本右近太夫は、加藤清正の家臣森本義太夫一久の子です。寛永9年(1632)正月アンコールワット(カンボジア)を訪れ、4体の仏像を寄進し父母の菩提を弔い、壁に落書を書き残しました。アンコールワットにはこのほか13個ほどの落書が発見されています。肥後の木原屋嘉右衛門夫妻・肥後国某夫妻・肥前の孫左衛門夫妻が参詣したと書いています。
展示期間
平成11年10月5日(火曜日)〜平成11年11月14日(日曜日)
チラシ
※過去の企画展の為、チラシに掲載の情報の内、概要・趣旨などのみ記載しております。
図録
平成11年10月5日発行 A4版白黒24頁 販売価格500円
購入方法については刊行物のご案内をご覧ください。
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