菊池川のハゼ並木
菊池川水運は、平成8年の文化庁「歴史の道・100選」に選ばれています。そのうち、六田・小浜の岸辺のハゼ並木は、二ノ岳、三ノ岳や雲仙を借景として美しく紅葉し、市民に親しまれています。また、この並木は平成19年には文部科学省の登録記念物に登録されています。しかし、このハゼ並木がいつの頃から植栽されたかについては、正確にはわかりません。その流れを、熊本藩の歴史とともにみてみましょう。
熊本藩でのハゼ仕立の本格的な始まりは享保8年(1723)といわれています。延享元年(1744)には櫨方請込役人をおき、庄屋をとおしてハゼ栽培を督励しています。菊池川流域でとれたハゼの実は、船便を利用して大浜町の大坂屋にあつめられました。宝暦改革をおこなった細川重賢はハゼを蝋に製して、熊本の特産品として藩外に売り出して収入増をはかっています。また、寛延2年(1749)には細川重賢が櫨方役所をもうけ、農民にいろいろなハゼ栽培の便宜をはかっています。玉名においては、下野口村庄屋・田添橘之允が御側御用櫨の御用懸を兼務し、文化7年(1810)には大浜村に櫨実御囲蔵が建てられ、7年後に、永徳寺村にも同じような櫨実御囲蔵が建てられています。江戸時代の後期には大浜町の廻船問屋・村上諸平治がハゼの実の搬送に活躍していたことがわかっています。
一方、製鑞についてですが、宝暦13年(1763)に藩立の高橋にに高橋製蝋所がおかれ、ここで製造された蝋、主に今の大阪に送られて好評をえています。その後、安政5年(1858)に山鹿の鍋田村に製鑞所が新設され、藩内の製蝋所は高橋・新三丁目・八代・水前寺と合わせ5カ所になりました。製蝋は専売制度をとられ、藩の財源をうるおしました。明治時代になると、灯油ランプの普及で蝋の需要は減少しますが、明治12年頃の記録『玉名郡村誌』には高瀬町に蝋燭職が8戸、蝋燭製造15,000斤と記されています。