海苔の養殖
菊池川河口では、古くから羽瀬や岩に付着した海苔を「寒海苔」として食されていました。大浜町は、明治7年福島万年、木下助之等が、海苔養殖を試みた所で、有明海の海苔養殖の発祥地ともいわれています。
大浜町で海苔養殖が本格化するのは、明治34年、早野義章により「熊本県海苔養殖試験場」がここに誘致されてからのことです。
その後、女竹等の垂直ヒビを用いた自然採苗による「寒海苔」は、博覧会で優秀な成績を収めその名をとどろかせました。
早野義章は、幕末の文久2年大浜町に生まれました。東京で遊学した彼は、18歳で大浜小学校に奉職します。早野義章は教え子達の窮乏を見かね、自らが海苔養殖に打ち込み産業を興すため、明治28年33歳で校長を退職し、生涯を郷土の産業振興のため尽くしました。
当時の海苔製造は手で摘み取った海苔をまな板の上で包丁でたたいて細かくし、水に溶かして簀(す)の上に枠木を置き、桝ですくってすきました。均一にすき上げるに、かなりの技術を要しました。
すいた海苔は干し台に掛け、天日に干して乾燥します。天気によって品質が左右されるので、天候には気をつかいました。はぎとり作業は、子どもたちも手伝って一家総出で行われました。
海苔養殖は、昭和28年「貝殻培養技術」が発明されてから大きく発展しました。海苔種の人工培養は春先に海苔の胞子を含んだ海水を貝殻に振りかけ、9月まで培養します。
海苔の種つけは、10月ごろ、30枚重ねた海苔網の下に、二つに割った猛宗竹をつり下げ、その中に胞子のついた貝殻を入れ、海水に浸します。
水温が23度台になると、貝殻から胞子が出て重ねた海苔網に付着します。
海苔種の人工培養が可能となり、海苔ヒビも女竹から、割竹を水平に浮かした割竹浮ヒビ、さらに網ヒビへと変化しました。
海苔ヒビの張り方も干潟に水平に張る支柱式に変化し、沖合で水面に浮動させる浮流し式も行われるようになりました。
収穫量が増えるにつれて、作業がだんだん機械化されました。昭和40年ごろから、摘みとりも網ヒビの導入にともなって、自動摘み機を備えた箱型の小舟を用いるようになりました。
また、乾燥の機械化や、昭和50年頃からは全自動製造機が導入され、省力化が進みました。
仕事着も変化しまし。最初は素足に草履はきでしたが、その後地下足袋をはくようになり、「モモグツ」という股まである長靴が出きて、現在では「ラバ」という胸まであるものを着用するようになりました。
海苔は「黒い札束」と呼ばれたように高級品であったので、多くの人々が海苔養殖に従事しました。全盛期の昭和30年代は大浜で600戸、滑石で900戸ほどもあった。しかし、労働の厳しい海苔養殖は昭和40年ごろから生産者が激減しました。現在では養殖から製造までの技術が時を追うごとに進歩したため生産枚数は急激にのびています。