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西郷どんと、玉名

更新日:2018年1月10日

西郷どんと玉名ロゴ画像

熊本で西郷隆盛といえば、西南戦争。
そして、その激戦地、熊本城や田原坂を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

実は玉名でも、今から約140年前の明治10年(1877)2月下旬、作家司馬遼太郎が西南戦争の“関ヶ原”と称したほどの重要な戦いが繰り広げられました。村やまちが戦場になったことで、玉名の人々の暮らしは大きな影響を受けました。

その「高瀬の戦い」には、2人の西郷どんが参加していたのです。

西郷隆盛の末弟、西郷小兵衛どんは小隊長として陣頭で指揮を執り、戦死。

奄美大島で生まれた息子、西郷菊次郎どん(当時17歳)も一兵士として参加したこの戦いで右足を撃たれ、後に膝から下を切断するほどの重傷を負っています。 

 西南戦争の関ヶ原「高瀬の戦い」

高瀬の戦いの推移説明画像


高瀬の戦いとして総称される明治10年(1877)2月の3日間にわたる戦闘は、西南戦争の転換点となった重要な戦いでした。ここでの敗戦後、東京を目指していたはずの薩摩軍は北進することなく、吉次峠、田原坂で守勢にまわり、熊本城の包囲を解いて宮崎、鹿児島方面へと後退を余儀なくされます。高瀬の戦いは、西郷どんや薩摩の若者たちのその後の運命を変える転換点の一つだったのです。

2月27日、米を奪われることを恐れた政府軍が高瀬御蔵に火を放ちました。その結果、高瀬御蔵と周辺の永徳寺村が焼失、高瀬町の1/3も焼失します。戦場は寺田や小田、玉名、梅林など広範囲に及び、住民が焼け出されたり軍夫としてかり出されました。

戦闘が田原坂方面へと移ってからは、高瀬周辺に病院・大本営・仮県庁が置かれて補給基地となり、その痕跡は今も各所に残されています。 


高瀬町の住人の画像

「高瀬の南側から永徳寺、繁根木にかけて焼け野原になり、八日町の私のご先祖の家も焼けてしまいました」竹田宏司文化課長


西郷隆盛が愛した末弟は、高瀬の戦いで銃弾に倒れた

西郷小兵衛の画像

小兵衛は隆盛の20歳近く離れた弟で、長身で体格もよく、落ち着いていて物事に動じない性格などが隆盛によく似ていたといいます。戦術にも優れ、高瀬では陣頭に立って戦いました。

(写真は歴史博物館こころピア展示パネルより)


2月27日、薩摩軍1番大隊1番小隊長だった小兵衛は、高瀬攻撃のため迂回して大浜から菊池川を渡り、繁根木八幡宮付近を進んでいたところ敵と遭遇。繁根木川の堤防上で銃弾を左胸に受け倒れました。抱き起こした者に「兄に先立つことが心苦しい」との言葉を残したといいます。
錦絵の画像

錦絵「鹿児嶋紀聞内西郷小平討死図」。中心の人物が小兵衛。戦闘後に東京で描かれた錦絵のため実際の状況とは異なります。


部下が永徳寺で焼け残っていた一番近くの民家(橋本鶴松宅)から雨戸を一枚もらい受け、それを担架代わりに運ばれていく途中、息を引き取りました。本営で遺体と対面した隆盛は、終始無言だったと伝わります。享年31歳。その死を、薩摩軍の全兵士が悲しみ惜しみました。

永徳寺の橋本家には、小兵衛の松子夫人からの手紙が6通も残っています。橋本家は、長年にわたり「戦没之地」碑の管理を行ってきました。

西郷小兵衛戦死の地碑の写真

戦死の地碑は永徳寺の繁根木川の堤防上にあります。


小兵衛の実際のお墓は隆盛と同じく鹿児島市の南州墓地にありますが、この永徳寺の戦死の地は、鹿児島からの見学者も多く訪れる場所となっています。

永徳寺と繁根木八幡宮の写真

菊池川の堤防から永徳寺を眺めると、小兵衛戦死の地の先に政府軍が陣地にしていた繁根木八幡宮が見えます。



 永徳寺村の住人の画像

「我が家のあたりから火を付けられ永徳寺の家々は燃えてしまいました。橋本家ともう1軒だけが焼け残っていたそうです」永徳寺で生まれ育った吉野誠志さん(76歳,永徳寺)



梅林では薩摩軍兵士を供養

2月26日の小田村での戦い後、敗走した薩摩軍加治木隊の兵士19人が梅林で集団自決し、下村の嶋津太郎作が供養したとの記録が嶋津家の菩提寺である秋丸の常安寺に残っています。その後、遺骨は遺族によって国元に持ち帰られました。

この縁で、平成29年10月に鹿児島県姶良市加治木町から住人24人が常安寺を訪れて参拝しました。

「肥後の西郷」と呼ばれた池辺吉十郎

池部吉十郎の画像


横島で私塾を開き人を育てた

 天保9年(1838)、池辺吉十郎は熊本の京町で熊本藩士池辺家に生まれました。藩の要職につき、幕末の京都でも奔走。明治5年、一家で横島村に移住しました。横島では農業をしながら塾を開いて子どもたちの教育にあたり、さらに吉十郎を慕う者たちが熊本からも通ってきました。その中には、のちに明治時代の熊本を担う人物になる佐々友房、辛島格などもいます。

池辺吉十郎私塾の写真


池辺吉十郎の屋敷、私塾は外平山の南麓、菅原神社の西側にありました。

 

 

第二の維新を夢見て西郷に呼応

吉十郎は、戦争直前の明治10年1月にも鹿児島へ行くなど、かねて西郷周辺と連絡をとりあっていました。西郷挙兵の報が届くと、政府に不満を持つ旧熊本藩士も「熊本隊」として西郷どんと共に戦うことが決まり、「肥後の西郷」と呼ばれるほど人望をあつめていた吉十郎が大隊長に選ばれます。

高瀬の戦いでは、2月26日に熊本隊を率いて寺田で戦い、腹部を負傷し敵に囲まれながらも突破に成功。その後、熊本隊は「地獄峠」と呼ばれた吉次峠に陣取り激戦を繰り広げました。さらに戦い続け、敗戦が色濃くなった薩摩軍と共に鹿児島へたどり着いたところで捕縛されました。

裁判では明治政府の失政への自説を述べ、長崎で処刑される際には、取り乱した様子もなかったそうです。享年40歳。明治11年9月、長崎から遺髪などが横島へ送られ、弟子たちが墓碑を建立。その後、息子吉太郎らが受け取ってきた遺骨も墓へ埋葬されました。

池辺吉十郎墓の写真

お墓は外平山の高所にあり、現在では地元の横島町文化財保存顕彰会の人たちによって、大切に清掃・管理されています。


横島町の住人の画像

「池辺先生は横島村で寺子屋を開き子どもたちに読み書きを教えました。また、多くの若者を育てたのです」元玉名市文化財保護審議会会長の米村忠さん(89歳,横島町横島)
 


政府軍兵士が眠る 高瀬官軍墓地(玉名市指定史跡)

戦争のなか、高瀬には戦傷者の病院、官軍墓地が置かれた

高瀬官軍墓地の画像

かつての高瀬官軍墓地(大正時代)


西南戦争での政府軍戦死者は、県内全体で数千人にのぼります。高瀬では、延久寺など10カ寺が病院となり、願行寺の敷地が戦死者のための墓地となりました。それを明治11年に整備したのが高瀬官軍墓地です。395人が葬られたとされ、高瀬の戦いから田原坂・吉次峠の戦いで負傷し、高瀬町の病院に収容された後死亡した人が大半です。

高瀬官軍墓地合祀塔の写真

高瀬官軍墓地合祀塔


長年大切にされてきましたが、管理が難しくなり墓碑の風化が進んだため昭和38年に合祀塔に改葬され、跡地は児童遊園地と第3保育所になりました。平成4年には保育所が廃止され、平成24年に一部が遊休国有地として売却されることになります。その後、「慰霊の場として大切にすべき」との市民の声をふまえて、市が一部を取得し公園として整備することになりました。ところが、整備前に行った発掘調査で、敷地内にはまだ改葬されていない人骨が残されていることがわかりました。

政府軍兵士の墓碑の写真


高瀬官軍墓地の改葬後、墓碑の一部は現在三ツ川にある光蓮寺へと移されました。かつては、この写真のような墓碑が官軍墓地内に整然と並んでいました。左から佐官、尉官、警視庁巡査、兵卒の墓碑(佐官、尉官は日本陸軍の位)。

発掘調査の結果、残されていた兵士の遺体や遺品が出土

平成26年〜28年の発掘調査では、人骨のほか、弾丸や軍服のボタン、ベルトの金具などが出土。また、墓地周辺には氏名が明らかな墓碑がまだ残っていることがわかりました。人骨は、溝のような穴に寝かせた状態や、一人分の穴を掘り、甕棺に埋葬された状態で見つかっています。

高瀬官軍墓地の発掘調査の写真


出土した銃弾やボタンの写真

出土した銃弾や軍服のボタン


官軍墓地としての歴史的価値を大切にしながら保存・活用するため、平成27年に市の史跡に指定。戦争初期に設置された高瀬官軍墓地は、病院として使われた高瀬の各寺院とともに、西南戦争の歴史を今に伝える貴重な存在です。今後、慰霊の場として大切にしていくとともに、学習の場やまちづくりの核、観光資源として、史跡の価値を生かした整備を検討していきます。


引用元:「西郷どんと、玉名」『広報たまな』平成30年2月号抜粋(PDF 約2MB) 

広報たまな平成30年2月号の画像


広報たまな平成30年2月号の画像


※本ページは上記記事を元に加筆・修正して作成しました。解説役の人物の年齢・肩書きは平成30年2月1日現在のものです。

 玉名の西南戦争を学ぶには

西南の役玉名戦記


歴史博物館こころピア

歴史博物館こころピアでは、戦跡を紹介したリーフレットを配布しているほか、過去に開催した西南戦争関連の企画展の図録を販売しています。『玉名市史』通史編下巻でも、詳しく解説されています。

 

お問い合わせ

玉名市立歴史博物館こころピア 電話番号:0968-74-3989 

博物館職員の画像

 



 

 


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