扇崎千人塚津波供養塔
扇崎千人塚津波供養塔(おうぎざきせんにんづかつなみくようとう)
【種別】熊本県指定重要文化財(歴史資料)
【員数】1基
【指定年月日】令和8年3月24日
【所在地】玉名市岱明町扇崎927
【所有者】明神尾区
【内容・特徴】
寛政4年(1792)4月に大津波が発生し、玉名郡内では約2,000人が亡くなり、同年9月、熊本藩は特に被害の大きかった玉名郡・飽田郡・宇土郡の各郡に供養塔1基を建立しました。「一郡一基の塔」と呼ばれています。この碑はそのうちの1基です。凝灰岩製で、総高205cm、二段重ねの台石の上に高さ150cmの標石を立て玉垣で囲まれています。正面に「南無阿弥陀仏」を彫り、両側と背面の三面にかけてこの碑を建てた由来が刻まれています。また、供養塔の周囲を囲む玉垣(明治24年5月の銘あり)、塔の前方にある仕切石、塚を登るために設置された石段は津波の犠牲者供養が長く続けられてきたことを示し、祈りの空間を構成する要素として重要です。
この供養塔は、熊本市西区小島と宇土市戸口町にある供養塔とともに藩が犠牲者を被災地で供養し、津波の記憶を後世に伝えようとしたことを示す歴史資料として重要であるとして、3基あわせて「寛政四年津波供養塔(一郡一基の塔)附 玉垣・石段・仕切石」として、熊本県指定重要文化財に指定されました。
【銘文】
「南無阿弥陀佛」「ことし寛政四の年壬子正月より肥前國温泉の嶽煙たち、炎火日に月に熾にして、おなしき四月一日の夜、山くつれて海に入、うしほわきあふれて、我國飽田・宇土・玉名三郡の浦々に及ひ、良民溺れ死する者玉名郡に二千二百余人、飽田・う土をあハせて四千数百余人、たまゝゝ活のこりたるも父母をうしなひ、或は老たるか、子むまこにおくれて泣さまよふ、あはれといふもさらなり、かゝる事ハふるき史にもまれなることになん、夫民は國の本なりとて、同しき六月に官より僧に命して、追福の事を修せしめ、その九月に一郡に一基の塔を建られ、死者の名を録してこゝに納め、幽魂を鎮せしむ、死者もししる事あらは千年の後まても死して朽すとおもふなるへし」
【地図】
【寛政の大津波について】
寛政4年(1792年)年始から島原では火山性地震が続いており、1月18、19日頃から島原雲仙岳の噴火が始まりました。3月1日、熊本では地震60回を数え、雲仙岳の噴煙が見られ火山灰が降りました。3月5日にも地震がありましたが、3月下旬には地震が止み、煙も収まったため人々は安心していました。その矢先の4月1日午後6時頃に雲仙岳が大噴火、眉山が海中へ崩落して大津波を引き起こしました。津波は対岸の玉名郡・飽田郡・宇土郡や天草の沿岸の村々を襲い、さらに反射した津波は島原半島一帯を襲って甚大な被害をもたらしました。津波は3回発生したといわれ、そのうち第2波が最大でその波高は約10メートルに達したとされます。この津波は「島原大変、肥後迷惑」といわれます。
この津波での死者は島原側と熊本側を合わせて15,000人。藩内の被害は死者5,520人、流失家屋2,250戸になりました。なかでも玉名郡の被害は大きく、約2,000人が亡くなりました。津波の被害を受けた田畑では作物が全滅し荒地となり、塩抜きが終わるまで作物が育たず、多くの農民が収穫皆無のため年貢を納めることができず、津波の後も人々は苦しみました。
扇崎千人塚津波供養塔の他にも熊本県や島原半島には供養塔が残っており、この津波による悲惨な被害状況とその教訓を現在に伝えています。
【関連文化財】
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