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マラソンの父 金栗四三さん

更新日:2017年9月15日

 金栗四三さん大河ドラマ記念ロゴ

マラソンの父 金栗四三

金栗四三

金栗四三さんは、マラソン選手として3度の世界記録を樹立し、日本人で初めて、第5回オリンピック・ストックホルム大会に出場。さらに、第7回アントワープ大会・第8回パリ大会と3度のオリンピック出場を果たしました。また、日本初となる駅伝「東海道五十三次駅伝」や、今や正月の風物詩となり日ごろあまり陸上競技と縁のない人にも深い感動をあたえる「箱根駅伝」は四三さんの発案です。マラソン普及のため、下関〜東京間・樺太〜東京間・九州一周を踏破し、全国走破を達成しました。生涯に走った距離は25万キロ・地球6周と4分の1です。

マラソン金栗の誕生

四三さんは、明治24年(1891)8月20日、玉名郡春富村(旧三加和町、現和水町)で造り酒屋を営んでいた父信彦・母シエの間に8人兄弟の7人目として誕生しました。

吉地尋常小学校(現和水町春富小学校)を卒業したあと、10才で玉名北高等小学校(現南関町)に入学。往復12キロの道のりを毎日走って通学しました。のちにこれを回想して、「マラソンを走るようになったのは、いつの頃からですか?と、よく聞かれますが、東京高等師範の2年生の時からです。その基礎を作ったのは、高等小学校時代に一里半の通学をやったことによると思います」と語っています。

明治38年(1905)玉名中学校(現玉名高校)に進学し、学校敷地内の寄宿舎(玉名郡弥富村、現玉名市中)で生活。クラスで1、2番の優秀な成績で特待生として授業料免除を受けていました。

玉名中学校4年の四三旧制玉名中学校4年生の時

マラソン競技との出会い

明治43年(1910)、東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した四三さんは、校長の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)に才能を見出されます。徐々に力をつけた四三さんは、日本のオリンピック初参加に向けた国内予選会で2時間32分45秒を記録。当時の世界記録を27分も縮める大記録でした。

01 金栗オリンピック国内予選会優勝の記念写真(ゼッケン51番)


17 若い金栗




ストックホルムオリンピック出場

明治45年(1912)、日本人初出場のオリンピック第5回ストックホルム大会は、猛暑に見舞われ、マラソン選手68人のうち34人がリタイアする過酷なレースとなりました。四三さんも日射病により、26.7キロ地点で棄権を余儀なくされます。

02 入場行進

ストックホルム大会開会式入場行進で「NIPPON」プラカードをもつ四三さん

「消えたオリンピック走者」

スタートで出遅れた四三さんは一度は最後尾になりますが、その後疲れてきた他選手を追い抜き、17、18位まで順位を上げていきました。しかし、折り返し地点を過ぎてまもなく、急激な疲労に襲われました。懸命にちからをふりしぼって走り続けようとしますが、体がいうことをききません。頭の中がボーッとしてかすみはじめ、とうとう26.7キロメートル地点でコースをはずれ、林の中に消えてしまいました。

地元の人(ペトレ家)に助けられた後、競技場へは戻らずまっすぐ宿舎に帰りました。そのため正式な棄権の届出が本部に届いていなかったようです。

このことで金栗四三という選手は、スウェーデンでは「消えた日本人」、「消えたオリンピック走者」として語られることになりました。

敗戦後の決意

翌日の日記

ストックホルムオリンピックにおいて、四三さんは思うような結果を残すことはできませんでした。敗因は、シベリア鉄道での長期の移動と宿舎の劣悪な環境の中でコンディションの維持が出来なかったこと、夏の暑さにまいったこと、練習と経験不足、なれない硬い舗装路面に足袋が破れヒザを痛める結果になったことなどが考えられました。

金栗四三帰国後ユニホーム姿で出場記念写真


オリンピック出場後

東京高等師範を卒業、研究科へ進んだ大正3年(1914)、22歳の時に親戚だった玉名郡小田村(現玉名市上小田)池部家の養子となる話がまとまり、4月10日に石貫村(現玉名市)の春野スヤさんと結婚。その後、東京府女子師範学校などで地理の教師として教壇に立ちながら、さらに走りに磨きをかけます。

04 世界記録樹立大正3年(1914年)第2回陸上競技会選手権で世界記録を樹立しゴールする瞬間


こののちも、挽回を期した大正5年(1916)第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のために中止、大正9年(1920)第7回アントワープ大会では優勝を期待されながらも惜しくも16位、大正13年(1924)第8回パリ大会ではすでに33才、ランナーとしての円熟期を過ぎ、32.3キロ地点で棄権。悲運のオリンピックランナーとして語り継がれています。

08 金栗パリゴール

パリ大会で激走する金栗選手

日本のランニングシューズの原点、「金栗足袋」を開発

当時は運動靴というものはまだ無く、地下足袋のような履き物で走ったそうです。オリンピック出場後、東京の足袋屋ハリマヤ親黒坂親子に頼んで足袋の改良に取り組み、ハゼ(留め金具)をやめ、甲にヒモが付いた型へと変わっていきました。

ストックホルムで見た外国人が履くゴムを底に付けたシューズがヒントとなり、ゴム底の「金栗足袋」を開発。多くの日本のマラソン選手が「金栗足袋」を履いて走りました。

金栗足袋

日本のスポーツ教育のさきがけ

3度のオリンピック出場で見た、世界のスポーツ競技の水準は想像以上でした。世界のスポーツの状況を目の当たりにした四三さんは、日本でもスポーツを広めなければならないと決意します。

とくに、女子も参加してスポーツが盛んなヨーロッパでの光景に感銘を受け、将来母となる女学生の心身を鍛えることは国の重大事であると指摘しました。1921年(大正10年)東京女子師範学校に奉職すると、初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催、大正12年には関東女子体育連盟を結成するなど、女子体育の振興に力をいれていきました。

地理の教師のかたわら、学校をまわって学生らと一緒に走り、スポーツの重要性を語りました。また、競技会や運動会に顔を出してはマラソン普及に努めました。暑さに強くなるように真夏の房総海岸での耐熱練習を繰り返し、心肺機能を高めるため富士山麓での高地トレーニングを続けました。

06 金栗


日本体育・マラソン普及のため、下関―東京間(大正8年)、樺太―東京間(大正11年)、九州一周(昭和6年)を踏破、全国走破を成し遂げました。また一人ではなくチームで長距離を走るため、駅伝を発案。日本初の駅伝東海道五十三次駅伝(大正6年)や箱根駅伝(大正9年)を企画。箱根駅伝は、正月恒例の大会となっています。 

現在のマラソン界につながるあらゆる試みが四三さんの発案です。

 マラソン普及と体育振興に尽力

昭和6年(1931)故郷玉名(現玉名市上小田)に帰り、学校対抗マラソン大会や駅伝競走をするなど、県内外においてマラソン普及に努めます。また、昭和11年日本での初オリンピック準備のため上京し、開催準備に奔走します(昭和13年第12回オリンピック東京大会返上決定)。

昭和20年(1945)、再び帰郷、熊本県体育会(後の熊本県体育協会)をつくり初代会長に就任、第1回県民体育祭、第1回金栗賞朝日マラソン(後日本で初めて国際マラソン選手権に指定、昭和49年福岡国際マラソン選手権大会となる)、昭和24年(1949)西部マラソン20キロ大会(後の金栗杯玉名ハーフマラソン大会)等開催に尽力します。昭和35年(1959)には熊本で行われた第15回国体の最終聖火ランナーとして走りました。

昭和30年(1955)には玉名市の市制施行祝賀式典において文化功労者として表彰され、さらに昭和37年(1961)には玉名市の名誉市民第1号に選ばれました。

市政だより(名誉市民)玉名市初の名誉市民に選ばれたことを伝える「玉名市政だより」(昭和37年11月19日発行)


 

橋本二郎初代玉名市長と金栗さん

橋本二郎初代玉名市長と金栗さん

自宅近くの小田小学校の児童を始め、運動会や市民体育祭では子どもたちや市民と一緒に走り、アドバイスするなど、走ることの楽しさ、すばらしさを玉名市民に伝え続けました。

金栗さん(国立競技場)東京オリンピックの年、昭和39年(1964)国立競技場で少年少女と走る金栗さん


13 金栗昭和39年(1964)玉名高校陸上部員と走る金栗さん


 55年目のゴール

しかし、晩年になっても四三さんの心残りは初めてのオリンピック、ストックホルム大会で途中棄権したことでした。

ストックホルム大会から50年目の夏、昭和37年(1962)にスウェーデンの新聞記者が「消えた日本人」の謎を解明するため、玉名の自宅で金栗さんを取材。謎を解き明かした取材結果は、スウェーデンの新聞やテレビで大きく紹介されました。

市政だよりとストックホルムの新聞ストックホルム・ティドニンゲン紙のヘッドバーグ記者による取材の様子を伝える「玉名市政だより」第86号(昭和37年7月25日発行)と、「1912年に行方不明になった日本人を発見した」と伝えるスウェーデンの新聞(7月31日発行)


昭和42年(1967)、75才のときにスウェーデンオリンピック委員会から一通の招待状を受け取ります。オリンピック記念行事(55周年記念祝賀行事」への招待でした。

夕食会スウェーデンオリンピック委員会による夕食会


半世紀ぶりにストックホルムの五輪記念陸上競技場を訪れた四三さんは、大観衆の中で10メートルほど走り、用意されていたゴールテープを笑顔で切りました。その瞬間、「日本の金栗選手、ただ今ゴールイン。記録は通算54年と8月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了といたします」との粋な場内アナウンスが流されました。そのとき、万感の想いが四三さんの胸をよぎったことでしょう。

07 金栗ゴール

四三さんは、「長い道のりでした。その間に妻をめとり、子ども6人と孫10人ができました」と語りました。この記録は、世界で最も遅いマラソン記録として語りつがれています。

2012年7月には、ストックホルムで「五輪100年記念マラソン大会」と金栗四三の功績をたたえた顕彰銘板の除幕式が開催されました。この式典には、四三さんのひ孫にあたる蔵土義明さんと高嵜哲哉玉名市長の2人がスウェーデンから招待され、蔵土さんはマラソンに、高嵜市長は除幕式に参加しました。この夢のような話は、日本とスウェーデンの、多くの人たちの尽力によって実現しました。

蔵土さんへタチアナさんがおもてなし


大きな功績を残した人生

金栗四三さんは、期待を背負って出場したオリンピックで結果を残せませんでしたが、日本初の大きな国際大会への参加から得た教訓を生かし、その後の人生においてマラソン界の発展と日本スポーツの基礎を築くことに奔走しました。「体力・気力・努力」の精神のもと、誰もがスポーツを楽しむ日本をつくることに生涯をかけたのです。晩年も各地のマラソン大会へ出かけては選手たちの激励やスターターをつとめ、人柄が伝わる温和な笑顔でレースを見守っていました。

16 紫綬褒章記念


 昭和30年(1955)紫綬褒章受章

金栗さん(玉高)

昭和44年(1969)県立玉名高校に銅像建立

 

金栗杯応援

金栗杯玉名30キロマラソンで声援を送る

金栗杯激励

昭和45年(1970)金栗杯開会式での選手激励(玉名市役所)

 

 老人スポーツ大会

昭和48年(1973)玉名市第1回老人スポーツ大会で「50メートル人さがし」競技に出場(玉名町小学校)

記念運動会

昭和49年(1974)玉名市「市制20周年記念運動会」で市民と走る(玉名中学校)


駅伝スターター

昭和55年(1980)駅伝大会スターター(玉名市)

金栗杯スターター

昭和57年(1982)第33回金栗杯玉名30キロロードレース大会スターター(玉名市)

 

四三さんが歩んでこられた道、その精神「体力・気力・努力」を残し、昭和58年(1983)11月13日、92才で永遠の眠りにつきました。お墓と記念碑は玉名市上小田の住家そばにあります。

金栗さん(記念碑とお墓)

 

2019年NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公に決定

玉名市名誉市民第1号でもある金栗さんが、NHKの2019年NHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の主人公に選ばれました。

「オリンピックに初参加した男」として、歌舞伎俳優の中村勘九郎さんが金栗四三役を演じます。
2020年の東京五輪の前年に、日本が初参加した1912年のストックホルム五輪から1964年の東京五輪までの、激動の52年間が描かれます。

 

金栗四三さん大河ドラマ記念リーフレット

金栗四三さん大河ドラマ記念リーフレット表紙

このリーフレットは2013年2月発行の「ふるさと玉名市の今」vol.5(PDF 約8MB)を改訂したものです。

玉名市役所本庁1階ロビー、歴史博物館こころピアで配布しています。

 

01 金栗
01 金栗

01 金栗

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02 入場行進
02 入場行進

02 入場行進

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03 帰国後
03 帰国後

03 帰国後

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04 世界記録樹立
04 世界記録樹立

04 世界記録樹立

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05 金栗
05 金栗

05 金栗

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06 金栗
06 金栗

06 金栗

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07 金栗ゴール
07 金栗ゴール

07 金栗ゴール

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08 金栗パリゴール
08 金栗パリゴール

08 金栗パリゴール

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09 金栗
09 金栗

09 金栗

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10 金栗
10 金栗

10 金栗

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11 玉名高校生と
11 玉名高校生と

11 玉名高校生と

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12 金栗
12 金栗

12 金栗

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13 金栗
13 金栗

13 金栗

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14 金栗足袋
14 金栗足袋

14 金栗足袋

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15 後進の指導にあたる金栗
15 後進の指導にあたる金栗

15 後進の指導にあたる金栗

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16 紫綬褒章記念
16 紫綬褒章記念

16 紫綬褒章記念

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17 若い金栗
17 若い金栗

17 若い金栗

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今も語り継がれる"金栗"の名前

金栗さんは、13歳で玉名郡弥富村(現玉名市中)にあった旧制玉名中学(現玉名高校)に入学。18歳で上京するまで、学校敷地内にあった寄宿舎で生活しました。東京高等師範学校在学中の22歳の時に、玉名郡小田村(現玉名市上小田)の池部家の養子となり、結婚。その後も関東で競技生活や教員生活を続けますが、40歳で小田村へ帰郷しました。その後45歳の時に東京オリンピック準備のため再び上京するも、53歳で帰郷、以後約40年間を現在も残る玉名市上小田の自宅で過ごしました。

92年の人生のうち青春時代と後半生の約50年を過ごした玉名市では、多くの市民が名誉市民”金栗さん”の人柄や功績に触れ、さまざまな形で“金栗”の名前が今も語り継がれています。

金栗杯玉名ハーフマラソン大会

昭和24年に開催以来60余年の歴史と伝統を誇る大会。若手選手の登竜門として数々の名ランナーを輩出してきました。

第68回金栗杯玉名ハーフマラソン大会

金栗駅伝大会

金栗四三の功績をたたえ、玉名市陸上競技協会が毎年開催。40回以上の歴史を持つ大会で、小学生から一般までが各部門で争います。

 金栗駅伝大会

金栗記念広場

桃田運動公園にある多目的運動広場で、マラソン競技の第一人者であり名誉市民でもあることからその名が付きました。

金栗記念広場

 金栗四三の銅像

出身校である熊本県立玉名高校の校庭には、銅像があります。昭和44年に建立されて以来生徒達をずっと見守っています。

金栗さん 銅像

金栗四三展

金栗足袋やユニホームなど、金栗さんゆかりの品々を収蔵・展示している市立歴史博物館こころピアでは、毎年金栗杯玉名ハーフマラソンの開催時期にあわせ2〜3月に遺品やパネルを展示する金栗四三展を開いています。

こころピア

玉名市名誉市民「金栗四三

昭和37年(1961)には玉名市の名誉市民第1号に選ばれました。玉名市役所本庁舎4階の議場前には歴代の名誉市民とともに金栗さんの写真と業績が紹介されています。 

名誉市民紹介コーナー

横断幕

2019年のNHK大河ドラマ化をPRする横断幕が、ゆかりの小田小学校近くの県道沿いのほか、市役所、JR新玉名駅などに掲示されています。横断幕には笑顔の金栗さんと玉名高校陸上部員の写真がプリントされています。小田校区の横断幕は、平成29年8月9日に地元の約30人が集まり協力して掲示されました。

横断幕 

金栗四三さんの看板画

大河ドラマ放送決定を記念した映画看板風の絵が玉名市に寄贈され、市役所ロビーに展示されています。これは看板絵師松尾寿夫さん(玉名市築地)がモノクロ写真をもとに油性塗料を用いて手描きで制作されたものです。看板画

 

記念碑

お墓の前には、金栗さんの書による「体力・気力・努力」と刻まれた記念碑があります。以前は記念碑に通じる道の道幅が狭く不便でしたが、地元小田校区のまちづくり委員会の努力によって道幅を拡げ近くまで車で行き駐車できるよう整備されました。

金栗記念碑


玉名市以外でも、出生地の三加和町(現和水町)では没後の昭和59年(1984)に名誉町民に選ばれました。また同年には一周忌追悼の「金栗四三翁マラソン大会」が開催され、今に続いています。箱根駅伝の第80回記念大会からは、最優秀選手賞として「金栗四三杯」が町長から授与されています。

ほかにも、熊本陸上競技協会などの主催による「金栗記念選抜陸上中長距離熊本大会」が、毎年4月初旬に熊本市の熊本県民総合運動公園陸上競技場(えがお健康スタジアム:旧愛称K.K.ウィング)を会場として開催されています。なお、K.K.ウイングのK.K.とは、金栗四三および「九州」「熊本」の頭文字からとられたものです。

2019年のNHK大河ドラマの主人公に選ばれたこの機会に金栗さんをさらにPRし、地域活性化につなげるため、玉名市、生誕地の和水町、走って通学した小学校のある南関町、熊本県玉名地域振興局とで連携していく予定です。さらに観光や経済、文化関係観の民間団体とも連携した地域一体となった取り組みで、情報発信や観光客誘致を進めていきます。

「金栗四三PR推進室」を設置しました

PR推進室 玉名市としては、大河ドラマの放送を機に市の知名度アップや観光客の増加等による地域の活性化を図りたいと考えています。そこで、大河ドラマに関する総合的な窓口や企画調整等を行う部署として、平成29年9月1日付けで産業経済部内に「金栗四三PR推進室」を新設しました。

電話番号

0968-57-7548

場所

市役所本庁舎3階の南側(企画経営課隣り) 

どんな人物だったのか、偉人の内面を探る


マラソン選手として、偉大な経歴を持つ金栗四三氏。今回、金栗氏がどんな人物だったのか、直接本人と近所付き合いのあった人へ話を聞きました。

11 玉名高校生と


初めて知った” マラソン” という言葉

1911年(明治44年)、羽田運動場でオリンピック代表選手選考大会が開催されました。この選考大会の告知記事とその種目を見た金栗氏は、なんとその時初めて“マラソン”という言葉を知ったそうです。まだマラソンという言葉が浸透しておらず、40キロを超える距離を走ることが日本では想像されてもいなかった頃に、金栗氏は手探りで練習をし、選考会を見事優勝で飾ったのです。

先を見据えていたトレーニング指導

日本代表としてオリンピックに出場した金栗氏は、トレーニングに関する知識も豊富。小学校の子どもたちに、現在でいうサーキットトレーニング(複数の動きを組み合わせ、休憩を挟まずに繰り返す練習法)を教えていました。内容も、タイヤ飛びなど子どもたちにあわせたもの。運動に必要な感覚は12〜13歳までにほぼ成人の水準に近くなるとされています。小学校の頃からさまざまな運動を通して感覚を成長させることの重要性を、当時から金栗氏は知っていたのかもしれません。

毎日かかさない朝夕の散歩

晩年、金栗氏は自宅から小学校までの約800メートルの距離を、雨の日も風の日も欠かさず、朝と夕方に往復していたそうです。「人間、足が大切」と話し、雨の日も傘を差しながら往復していたようです。

走ろう会の訪問


引用元:「金栗四三の軌跡」『広報たまな』平成24年7月1日号抜粋(PDF 約4MB)

 

金栗さんをもっと知りたい時には

多くの遺品や資料を収蔵・展示している歴史博物館こころピアでは、功績を紹介したリーフレットを配布しているほか、遺品や写真を掲載した図録『マラソンの父・金栗四三 -25万キロの人生-』や楽しく遊びながら足跡を学べる「金栗四三すごろく」を販売中。

金栗グッズ


体験学習に参加するともらえる「金栗足袋缶バッジ」や、若き日の金栗さんの等身大パネルと一緒に記念撮影ができるコーナーも。金栗さんのポストカードも販売しています。

金栗すごろくとパネル


お問い合わせ 玉名市立歴史博物館こころピア 電話番号:0968-74-3989 

金栗四三さんの足跡

 

表:金栗四三さんの足跡
年代ことがら
明治24年(1891)8月20日、玉名郡春冨村(旧三加和町、現和水町)にて父信彦・母シエの間に生まれる。
明治30年(1897)春富村吉地尋常小学校入学
明治34年(1901)玉名北高等小学校入学 
明治38年(1905)3月4日、父信彦病死(56歳)。玉名中学校(現玉名高校)進学、寄宿舎(玉名郡弥富村、現玉名市中)で生活
明治43年(1910)東京高等師範学校(現筑波大学)進学、校長嘉納治五郎
明治44年(1911)徒歩部に入部し、11月19日オリンピック国内予選で世界記録2時間32分45秒達成(20歳)
明治45年(1912)7月14日第5回オリンピック・ストックホルム大会マラソンに日本人初の出場、暑さのため26.7キロ地点で棄権
大正元年(1912)千葉館山で暑中トレーニング
大正2年(1913)

東京高等師範最高学年、徒走部室長となる。

第1回陸上競技選手権大会出場、世界記録2時間31分28秒達成(22歳)
大正3年(1914)

東京高等師範卒業、研究科へ。

玉名郡小田村(現玉名市上小田)池部家の養子となる話まとまる。

4月10日春野スヤと結婚

11月第2回陸上競技選手権大会出場、世界記録2時間19分20秒3達成(23歳)
大正4年(1915)大日本体育協会から功労賞
大正5年(1916)

第6回オリンピックベルリン大会第一次世界大戦で中止。

神奈川師範学校赴任(担当科目地理)
大正6年(1917)

独逸学協会中学校に移る、高地トレーニング始める。

4月27日〜29日日本初の駅伝奠都(てんと)記念東海道五十三次駅伝競走を企画、アンカーをつとめ優勝

4月29日大日本体育協会から功労賞

7月22日富士登山マラソン競走
大正8年(1919)

7月22日〜8月10日秋葉祐之と下関-東京間1200キロを20日間で走破

11月日光-東京間130キロ10時間で完走
大正9年(1920)

2月14日第1回東京箱根間往復駅伝競走を企画

8月22日第7回オリンピック・アントワープ大会マラソン出場、2時間48分45秒で16位(29歳)

オリンピック後ドイツへ、女子体育の振興に目覚める
大正10年(1921)

東京府女子師範学校へ奉職

9月30日日本初女子テニス大会開催

11月第1回女子連合競技大会開催
大正11年(1922)8月3日〜8月26日樺太-東京間を20日間で走破
大正12年(1923)関東女子体育連盟結成
大正13年(1924)7月13日第8回オリンピック・パリ大会マラソン出場、32.3キロ付近で意識不明となり落伍、大会後第一線から引退(33歳)
昭和6年(1931)故郷玉名(現玉名市上小田)へ帰る。栗木義彦と九州一周走破。学校を巡り学校対抗のマラソン大会や駅伝競走をするなど県内外においてマラソン普及に奔走する(40歳)
昭和11年(1936)日本で初のオリンピック誘致のため上京、大塚十文字高女に勤める傍らオリンピック開催準備に奔走(45歳)
昭和13年(1938)7月第12回オリンピック東京大会返上決定
昭和20年(1945)3月再び故郷へ(53歳)
昭和21年(1946)

4月1日宇土虎雄・吉田三二氏らと熊本県体育会をつくり、初代会長となる。(昭和26年に県体育協会となる)

11月3日第1回県民体育祭開催に尽力
昭和22年(1947)

東京箱根間往復駅伝競走復活

12月5日第1回金栗賞朝日マラソン熊本市で開催(のち日本で初めて国際マラソン選手権に指定、昭和49年福岡国際マラソン選手権大会となる)
昭和23年(1948)11月1日熊本県初代教育委員長となる(57歳)
昭和24年(1949)2月27日西部マラソン20キロ大会佐世保において開催
昭和27年(1952)

熊日社会賞受賞

11月九州一周駅伝を企画
昭和28年(1953)西日本文化賞受賞、第5回ボストンマラソン日本監督となる(62歳)
昭和30年(1955)11月3日紫綬褒章受章
昭和32年(1957)

紫綬褒章授章を記念して熊日30キロ招待マラソン開催(25回大会から熊日30キロロードレースと改称)(65歳)

11月3日熊本県近代文化功労者として表彰
昭和33年(1958)朝日文化賞受賞
昭和34年(1959)6月7日第11回西部マラソン30キロ大会玉名市で開催、これより玉名市に定着(「金栗杯玉名30キロマラソン大会」「金栗杯玉名ロードレース大会」「金栗杯玉名ハーフマラソン大会」と改称)(67歳)
昭和35年(1960)10月24日第15回国民体育祭熊本で開催、最終聖火ランナーとして走る(69歳)
昭和37年(1962)11月1日玉名市名誉市民(第1号)となる(71歳)
昭和39年(1964)

10月10日第18回東京オリンピック開催

11月3日勲四等旭日小綬章受章
昭和40年(1965)11月10日秋の園遊会に招待される
昭和42年(1967)3月20日〜4月1日スウェーデンオリンピック委員会の招きによりスウェーデン訪問、54年8カ月6日5時間32分20秒3、半世紀目のゴールをはたす(75歳)
昭和44年(1969)5月31日熊本県立玉名高等学校に金栗四三銅像除幕
昭和45年(1970)4月19日西部マラソン30キロ玉名大会を金栗杯玉名30キロマラソン大会と改称
昭和47年(1972)1月19日熊本走ろう会発足、初代名誉会長となる(80歳)
昭和58年(1983)従五位銀杯下賜
昭和58年(1983)

11月13日永眠(92歳)

11月20日、金栗翁追悼玉名市民マラソン

11月29日、玉名市・県体育協会・熊本陸上競技協会「玉名市名誉市民故金栗四三先生合同告別式」(玉名市民会館)

「金栗四三」さんの名前の読み方

金栗さんの名字「金栗」は「かなくり」「かなぐり」、名前の「四三」は「しぞう」「しそう」と読み方が複数あり、書籍や新聞記事などで異なる表記がされています。玉名市では「かなくり しぞう」と読むことで統一しています。

これは、金栗さん本人が昭和37年(1962)に書いた英文の手紙に「Shizo Kanakuri」と署名していること、昭和39年オリンピック東京大会組織委員会発行の身分証明書では「KANAKURI SHIZO」、昭和42年(1967)外務省発行のパスポートでは「SHIZO IKEBE」とのアルファベット表記になっていることをもとにしています。

なお、金栗さんは大正3年(1915)に池部家の養子に入り「池部(いけべ)」に改姓していますが、終生「金栗」を名乗りました。金栗さんは、改姓する前の高等師範学校時代にオリンピックへ出場するなど活躍していたため、金栗の名前を「四股名」として使ってきたと言っていたそうです。


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