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マラソンの父 金栗四三さん

更新日:2009年1月19日

マラソンの父 金栗四三

金栗四三さんは、マラソン選手として3度の世界記録を樹立し、日本人で初めて、第5回オリンピック・ストックホルム大会に出場し、第7回アントワープ大会・第8回パリ大会と3度のオリンピック出場を果たしました。また、日本初となる駅伝東海道五十三次駅伝や、今や正月の風物詩となり日ごろあまり陸上競技と縁のない人にも深い感動をあたえる箱根駅伝は四三さんの発案。さらに、下関〜東京間・樺太〜東京間・九州一周を踏破し、全国走破を達成しました。生涯に走った距離は25万キロ・地球6週と4分の1です。

四三さんは、明治24年(1891年)8月20日、玉名郡春富村(旧三加和町、現和水町)に(造り酒屋を営んでいた父信彦・母シエ)誕生しました。
吉地尋常小学校(現和水町春富小学校)を卒業したあと、10才で玉名北高等小学校(現南関町)に入学。往復12キロの道のりを毎日走って通学しました。のちにこれを回想して、「マラソンを走るようになったのは、いつの頃からですか?と、よく聞かれますが、東京高等師範の2年生の時からです。その基礎を作ったのは、高等小学校時代に一里半の通学をやったことによると思います。」と新聞に書いています。

明治38年(1905)玉名中学校(現玉名高校)進学し、クラスで1、2番の優秀な成績で特待生として授業料免除を受けていました。明治43年、東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した四三さんは、校長の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)に才能を見出されます。徐々に力をつけた四三さんは、日本のオリンピック初参加に向けた国内予選会で2時間32分45秒を記録。当時の世界記録を27分も縮める大記録でした。

明治45年、日本人初出場のオリンピック第5回ストックホルム大会は、猛暑に見舞われ、マラソン選手68人のうち34人がリタイアする過酷なレースとなりました。四三さんも日射病により、26.7キロ地点で棄権を余儀なくされます。
こののちも、第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のために中止、第7回アントワープ大会では優勝を期待されながらも惜しくも16位、第8回パリ大会ではすでに33才、ランナーとしての円熟期を過ぎ、32.3キロ地点で棄権。悲運のオリンピックランナーとして語り継がれています

大正3年(1914)、玉名郡小田村(現玉名市小田)池部家の養子となり、4月10日春野スヤさんと結婚。その後、東京女子師範学校などで地理の教師として教壇に立ちながら、さらに走りに磨きをかけます。オリンピック第8回パリ大会後は、後進の育成に力を尽くします。ストックホルムでの敗因を分析、考え出した真夏の房総海岸での「耐熱練習」。心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング。そして、孤独な長距離の練習をチームでやろうという箱根駅伝の企画。さらには、女子体育の奨励など、現在のマラソン界につながるあらゆる試みが四三さんの発案です。

昭和6年(1931)故郷玉名に帰り、学校対抗マラソン大会や駅伝競走をするなど、県内外においてマラソン普及に努めます。また、昭和11年日本での初オリンピック誘致のため上京し、開催準備に奔走します。(昭和13年第12回オリンピック東京大会返上決定)
昭和20年(1945)、再び帰郷、熊本県体育会(後の熊本県体育協会)をつくり初代会長に就任、第1回県民体育祭、第1回金栗賞朝日マラソン(後日本で初めて国際マラソン選手権に指定、昭和49年福岡国際マラソン選手権大会となる)、昭和24年(1949)西部マラソン20キロ大会(後の金栗杯玉名ハーフマラソン大会)等開催に尽力します。昭和35年(1959)には熊本で行われた第15回国体の最終聖火ランナーとして走りました。

しかし、晩年になっても四三さんの心残りは初めてのオリンピック、ストックホルム大会で途中棄権したことでした。昭和42年(1967)、75才のときにスウェーデンオリンピック委員会から一通の招待状を受け取ります。オリンピック記念行事への招待でした。この2度目のチャレンジで、四三さんはついにゴール。「日本の金栗、只今ゴールイン。タイム、54年と8月6日5時間32分20秒3。これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了する」場内をアナウンスが流れたとき、万感の想いが四三さんの胸をよぎったことでしょう。

四三さんが歩んでこられた道、その精神「体力・気力・努力」を残し、昭和58年(1983)11月13日、92才で永遠の眠りにつきました。

 

「ふるさと玉名市の今」vol.5もご覧下さい。

 「ふるさと玉名市の今」vol.5


 

01 金栗
01 金栗

01 金栗

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02 入場行進
02 入場行進

02 入場行進

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03 帰国後
03 帰国後

03 帰国後

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04 世界記録樹立
04 世界記録樹立

04 世界記録樹立

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05 金栗
05 金栗

05 金栗

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06 金栗
06 金栗

06 金栗

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07 金栗ゴール
07 金栗ゴール

07 金栗ゴール

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08 金栗パリゴール
08 金栗パリゴール

08 金栗パリゴール

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09 金栗
09 金栗

09 金栗

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10 金栗
10 金栗

10 金栗

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11 玉名高校生と
11 玉名高校生と

11 玉名高校生と

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12 金栗
12 金栗

12 金栗

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13 金栗
13 金栗

13 金栗

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14 金栗足袋
14 金栗足袋

14 金栗足袋

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15 後進の指導にあたる金栗
15 後進の指導にあたる金栗

15 後進の指導にあたる金栗

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16 紫綬褒章記念
16 紫綬褒章記念

16 紫綬褒章記念

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17 若い金栗
17 若い金栗

17 若い金栗

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金栗四三さんの足跡

 

表:金栗四三さんの足跡
年代ことがら
明治24年(1891)8月20日、玉名郡春冨村(現三加和町)にて父信彦・母シエの間に生まれる。
明治30年(1897)春富村吉地尋常小学校入学
明治34年(1901)玉名北高等小学校入学 
明治38年(1905)3月4日、父信彦病死(56歳)玉名中学校(現玉名高校)進学
明治43年(1910)東京高等師範学校(現筑波大学)進学、校長嘉納治五郎
明治44年(1911)徒歩部に入部|11月19日オリンピック国内予選で世界記録2時間32分45秒達成(20歳)
明治45年(1912)7月14日第5回オリンピック・ストックホルム大会マラソンに日本人初の出場、暑さのため26.7キロ地点で棄権
大正元年(1912)千葉館山で暑中トレーニング
大正2年(1913)

東京高等師範最高学年、徒走部室長となる。

第1回陸上競技選手権大会出場、世界記録2時間31分28秒達成(22歳)

大正3年(1914)

東京高等師範卒業、研究科へ

玉名郡小田村(現玉名市小田)池部家の養子となる。

4月10日春野スヤと結婚

11月第2回陸上競技選手権大会出場、世界記録2時間19分20秒3達成(23歳)

大正4年(1915)大日本体育協会から功労賞
大正5年(1916)

第6回オリンピックベルリン大会第一次世界大戦で中止。

神奈川師範学校赴任(担当科目地理)

大正6年(1917)

独逸学協会中学校に移る、高地トレーニング始める。

4月27日〜29日日本初の駅伝奠都(てんと)記念東海道五十三次駅伝競走を企画、アンカーをつとめ優勝

4月29日大日本体育協会から功労賞

7月22日富士登山マラソン競走

大正8年(1919)

7月22日〜8月10日秋葉祐之と下関-東京間1200キロを20日間で走破

11月日光-東京間130キロ10時間で完走

大正9年(1920)

2月14日第1回東京箱根間往復駅伝競走を企画

8月22日第7回オリンピック・アントワープ大会マラソン出場、2時間48分45秒で16位(29歳)

オリンピック後ドイツへ、女子体育の振興に目覚める

大正10年(1921)

東京府女子師範学校へ奉職

9月30日日本初女子テニス大会開催

11月第1回女子連合競技大会開催

大正11年(1922)8月3日〜8月26日樺太-東京間を20日間で走破
大正12年(1923)関東女子体育連盟結成
大正13年(1924)7月13日第8回オリンピック・パリ大会マラソン出場、32.3キロ付近で意識不明となり落伍、大会後第一線から引退(33歳)
昭和6年(1931)故郷へ帰る、栗木義彦と九州一周走破。学校を巡り学校対抗のマラソン大会や駅伝競走をするなど県内外においてマラソン普及に奔走する(40歳)
昭和11年(1936)日本で初のオリンピック誘致のため上京、大塚十文字高女に勤める傍らオリンピック開催準備に奔走(45歳)
昭和13年(1938)7月第12回オリンピック東京大会返上決定
昭和20年(1945)3月再び故郷へ(53歳)
昭和21年(1946)

4月1日宇土虎雄・吉田三二氏らと熊本県体育会をつくり、初代会長となる。(昭和26年に県体育協会となる)

11月3日第1回県民体育祭開催に尽力

昭和22年(1947)

東京箱根間往復駅伝競走復活

12月5日第1回金栗賞朝日マラソン熊本市で開催(のち日本で初めて国際マラソン選手権に指定、昭和49年福岡国際マラソン選手権大会となる)

昭和23年(1948)11月1日熊本県初代教育委員長となる(57歳)
昭和24年(1949)2月27日西部マラソン20キロ大会佐世保において開催
昭和27年(1952)

熊日社会賞受賞

11月九州一周駅伝を企画

昭和28年(1953)西日本文化賞受賞、第5回ボストンマラソン日本監督となる(62歳)
昭和30年(1955)11月3日紫綬褒章受章
昭和32年(1957)

紫綬褒章授章を記念して熊日30キロ招待マラソン開催(25回大会から熊日30キロロードレースと改称)(65歳)

11月3日熊本県近代文化功労者として表彰

昭和33年(1958)朝日文化賞受賞
昭和34年(1959)6月7日第11回西部マラソン30キロ大会玉名市で開催、これより玉名市に定着(「金栗杯玉名30キロマラソン大会」「金栗杯玉名ロードレース大会」「金栗杯玉名ハーフマラソン大会」と改称)(67歳)
昭和35年(1960)10月24日第15回国民体育祭熊本で開催、最終聖火ランナーとして走る(69歳)
昭和37年(1962)11月1日玉名市名誉市民となる(71歳)
昭和39年(1964)

10月10日第18回東京オリンピック開催

11月3日勲四等旭日小綬章受章

昭和40年(1965)11月10日秋の園遊会に招待される
昭和42年(1967)3月20日〜4月1日スウェーデンオリンピック委員会の招きによりスウェーデン訪問、54年8カ月6日5時間32分20秒3、半世紀目のゴールをはたす(75歳)
昭和44年(1969)5月31日熊本県立玉名高等学校に金栗四三銅像除幕
昭和45年(1970)4月19日西部マラソン30キロ玉名大会を金栗杯玉名30キロマラソン大会と改称
昭和47年(1972)1月19日熊本走ろう会発足、初代名誉会長となる(80歳)
昭和58年(1983)従五位銀杯下賜
昭和58年(1983)11月13日永眠(92歳)

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